小学生より低レベルの大学生

 知人に小学生を対象にして塾をやっているのがいる。そこに最近1年生の男の子が入塾してきた。その子は優秀な子でどんどんと学習が進んでいく。小1にも関わらず、九九を卒業し、今、分数をやっているという。それも異分母二桁の足し算引き算をスラスラと解くそうだ。
 かたや、1/2+1/3= という質問に2/5と答える大学生が存在することも確かだ。
 残念ながら、大雑把に大学生と呼ばれている集団の中には、少し優秀な小学1年生より劣る連中が山ほどいるということである。
 呉智英さんの情報だったと思うが、「今、大学でアルファベットの読み方から始めているところがある」と言われていた。

先生「はい、皆さん、これはエー、これはビー、これはシー、はい、ご一緒に」
学生たち「エービーチー」

 これがF大学(フリーに入れる大学)の授業の実態である。
 F大生に悲しいお知らせをしなければならない。冒頭の小学1年生は、すでに「be動詞の文」に進んでいる。
 小1の彼は学習するのが実に楽しいのだそうな。父兄も、塾の教師もなにも強制していないのだが、一人でどんどんと先に学習していく。それに引っ張られて、他の塾の子供たちも頑張るようになっているという。少なくとも国語、算数、英語に関して言えば、F大生の皆さんより優秀な小学1年生が、全国津々浦々に数多存在するということだ。
 もうモラトリアムとしての大学進学は止めないか。F大に4年間、放り込んでも、入学時よりもよくなるわけがない。そもそも、学習意欲など持ち合わせずに生まれてきた連中、学ぶことが嫌いな人間に、形ばかりの大学で勉学を強制することが、人格形成においてプラスになるとはとても思えない。
 こうしたF大にも国から補助金がじゃぶじゃぶと入っている。その金で小学1年生に劣るシロモノを作ってどうするつもりか。

 ワシャの母方の伯父は学問はなかった。田舎の尋常小学校を卒業してそのまま、家を継ぎ、山や田畑を守って生きた。家の仕事もあるので、とくに勉強がしたいとも思わなかったそうだ。でも、自分に学問がなかったから、歳の離れた勉強好きの妹にはせめてもということで、貧しい家計から学費を捻出し町の大学を卒業させたそうだ。
 ワシャが物心ついたころには、伯父はもう立派な老人だった。しかし、腰に鉈を差し、草刈り用の大鎌を杖にして山を行く姿は格好良かった。
時に、ガキのワシャを連れて、裏山に入っていくことがあった。歩きやすいところは歩かせ、険しいところは背中に担いだ笈に乗せてくれた。伯父は、恵那の山々を熟知していた。ワシャが尋ねる山のあらゆることに答えてくれた。多分、アルファベットは知らなかっただろう。でも、山のことは山ほど知っていた。
 伯父と半日、山を歩くだけで、笈にいっぱいの山菜やキノコがとれた。また、川に下りて、投網を打てば、モロコやフナなどの小魚が面白いように掛かった。それらが夕食の天麩羅になり、食卓をかざったものだ。
 学問はなかったが、自然の中から食材を手品のように捻り出す。食材ばかりではない。遊び道具から、雨具、防虫グッズまで山や川から入手する伯父はワシャのヒーローだった。
 それでいいんじゃないか。学問などしたい人がすればいい。優秀な子供が、学費の心配をすることなく最高学府まで行けるようにはしなければならないが、全員が高校へ進学し、またそこから何割もの連中がただブラブラと暇を潰すためだけに大学へ進む必要はない。勉強よりも実践の場のほうが向いている人もいる。伯父のように、山で一生を終える人がいてもそれはそれでいいと思うがいかがかな。