呪(しゅ)

 ワシャの正体に気づかれておられる方には少々面倒くさいかもしれぬ。が、気づかれておられぬ方もおみえなので、若干、言い換えながらの物語にお付き合いくだされ。

 昨夜、社の宴会があった。社外委員のお歴々とワシャの部局の幹部連中との、総勢30名ほどの懇親会である。
 宴会の仕切りはなぜかワシャの課でする。歴代そうするのがシキタリのようなので、やむを得ないと思ってやっている。でも、日程調整、宴会場の予約、出欠の確認、当日の席割、会費の徴収程度のことだし、部下が優秀なので、大して負担にはならない。
 宴は午後6時に始まる。せっかちな幹部が先に行ってしまって、ちまちましたことで嫌味を言われるのも業腹なので、仕事を終えた部下2人を、社の近くにある宴会場に先行させておいた。ワシャはというと、社外委員はぎりぎりにやって来るから、余裕をみて10分前に着くように社屋を出た。
 宴会場に到着する。いつも利用しているところなので、勝手知ったる店である。玄関で靴を脱ぎ、階段をあがるとロビーがあり、その奥が宴会場になっている。
 そのロビーで部下が2人受付をしていた。ワシャの顔を見ると、顔をゆがめて「課長、席割が大幅に変更になりました」と言うではないか。
 なにしろ上下にうるさい幹部もいるので、気を使ってやったつもりなのだが、それでもケチをつける人間はいるもので、多少のことは仕方がないとは思う。しかし、部下の言った「大幅」という言葉に引っ掛かった。
 ロビーを十歩もゆけば宴会場だ。とにかく現場を確認するために襖を開ける。
 およよ、なんと宴会場は大わらわになっていた。課長連中が、テーブルや座布団をあっちへやったりこっちに移したりしている。まもなく社外役員が到着する時刻だ。
「何をやっているんだ!」
 と、ワシャが一喝すると、作業の手が止まった。ワシャの血相が変わっていたのだろう。某課長が近寄ってきて、小声で事情を説明してくれた。
「社外委員担当の部長が席割を替えると言い出したんだ。それでこんな騒ぎになってしまった」
「段取りはオレに課に任せてあるんじゃないのか?」
 ワシャの声はでかい。
「そうは言っても部長の命令だ」
「それじゃぁ替える理由を説明しろ」
「社外委員を上座に並べるのではなく、社員の中に分散させてなるべく話が弾むようにしたいんだそうだ」
 あ、それはいいことだ。
 まぁ、それなら料簡しよう。混乱さえしなければ席割などどうでもいい。
 ところが、その後、混乱が始まった。席割が乱れたために、誰がどこに座るかで、局地的に紛糾している。でも、ワシャは静かに端坐している。そのワシャにしたり顔の先輩課長が絡んできた。
ワルシャワ、お前にしてはきき分けがいいじゃないか。いつもの元気はどこに行った?」
 先輩課長は、ワシャが部長に遠慮したと思ったのだろう。さらに「うだうだ……」と言ってくるので、うっとうしくなった。誰に言う出もなしに大声でこう言った。
「あったまくるなぁ、オレの段取りを壊しやがって。酔っぱらったら近づくんじゃねえぞ」
 もちろんワシャに言い寄っていた先輩課長の目は点になった。周囲の同僚たちは凍りついた。そしてその言葉は、ワシャと背中合わせで座っている当該部長にも当然聞こえている。

 確かに段取りをひっくり返されて、気分はよくなかった。しかし、さして怒ってはいなかった。ただ、宴で酒は静かに飲みたい。だから周囲に「呪」をかけた。

 まだ、ワシャが若かりし頃の話である。当然のことながら、この宴に出席している幹部連中も若かった。若いということで、みんな鬱積したものを抱えていたのだろう。飲みに行くと、些細なことでよくもめた。とくに5〜6歳上に青年団のような社内クラブがあって、この団体ご一行にはよくからまれたものだ。
 向こうは10人ほどのグループで飲んでいる。ワシャはせいぜい気の合う仲間2〜3人で飲む。年齢的にも人数的にも向こうが圧倒的に有利なので、クセの悪い先輩が、カウンターで飲んでいるワシャらにちょっかいをかけはじめる。中には座敷から移ってきて、
ワルシャワ、オレの酒を飲め」
 と酒を強要するのもいる。
 当時は、あまり日本酒が得意ではなかったので、一盃は敬意を表して頂戴し、二盃めは丁重にお断りした。
 すると、先輩、ドスのきいた声でこう言う。
「なんだとぉ、オレの酒が飲めないのか?」
 テレビの時代劇かなんかでそういうシーンを見ることはあったが、まさか現実にそんなことを言うヤツがいるとは思わなかった。面倒くさい。
 ワシャは素直な人間なので、
「飲めません」
 と、あっさりと答える。それが癇に障ったのか、先輩、罵詈雑言を投げつけてくる。
 ところがどっこい、声のでかさと罵詈雑言の豊富さでワシャは敗けたことがない。立て続けに速射砲を浴びせてやった。先輩はフラフラになって座敷に逃げ帰っていく。その後も、何人かがカウンターを襲撃に来るのだが、ことごとく返り討ちにしてやった。ざまーみろ。

 そんなことが3〜4年続いたかなぁ。さすがに鈍い連中でも、「酔ったワルシャワには手を出すな」ということがだんだん分かってきたようで、それ以降、時たま、知らない奴が突然、火の中に飛び込んでくることもあったが、比較的平穏な日々を送っている。

 その時代に幹部連はしこたま学習していたのである。「酔っぱらったら近づくんじゃねえぞ」という言葉にからめ取られ、ワシャは静かに宴を過ごすことができたのであった。もちろん、件の部長もワシャに近づかなかった。めでたしめでたし。