桶狭間の戦い その2

 ワシャは国土地理院の地形図(1:2500、1:50000)を何枚も持っている。とくに愛知県内はわりとしっかりと揃えている。地形図には10メートル間隔の等高線が入っているので、かつての地形を想像する上の一助となる。
 今、「知立」という1:2500の地形図を眺めている。地図は、横45.64センチ、縦36.98センチの長方形である。
 地図の見たい人は、国土地理院の「ウォッちず」
http://watchizu.gsi.go.jp/
を見てね。
 地図の右半分が豊田市、上部にみよし市の南部が顔を出し、左半分が豊明市刈谷市、下から知立市の北部がのぞいている。国道1号が下辺の中央から左辺の真ん中あたりに抜けている。これが旧東海道と重なる。
 今川義元東海道の脇にある知立神社で17日に一泊している。ここから一気に東海道を西に進めば、一里半で桶狭間である。その半里先に戦線があるわけで、なぜ、直行しなかったのだろう。
 18日早朝、義元は東海道を西に進んだことは間違いない。ただ、途中で進路を北に変じている。多分、尾張三河の国境を流れる境川沿いに北上したものと思われる。そして、二里ほどのところにある沓掛城に入った。
 現地は、今では住宅地として開発されてしまったが、地形図を見ると、かつては東、北、西に山を背負い南に開けた地形だということがわかる。ここで義元は18日の夜を過ごす。
信長公記』によれば、18日に義元が沓掛に入城したことが、清須にいる信長に報告されている。池鯉鮒から沓掛までは平坦路が続く。きらびやかな一軍が、白昼堂々、城に入って行けば嫌でも目につくだろう。織田の間諜が、それを見逃すわけはない。
 また、今川方の総攻撃が翌19日になるという情報が入った。ここから信長は「敦盛」を舞い、熱田神宮に立ち寄って戦勝祈願をし、その後に桶狭間にやってくる。
 昨日も言ったように、18日に義元が桶狭間あたりに入って、陣地構築を始めれば、間諜が清須に注進しても、それに応じて信長が来襲するまでに今川本陣の固めは充分に出来ただろう。
 あわせて、18日に桶狭間あたりに信長勢が身を隠す集中豪雨はなかった。(続く)