桶狭間の合戦をたどるツアー

 ご参加いただきました皆さん、お疲れ様でした。それにしても暑い日でござった。以下にツアーの概要を書いておきますね。

 9月18日、午前9時JR安城駅北口集合。
 今回は、安城駅周辺にあるホテルや旅館が、なぜか満員で、三河安城刈谷でも宿がなく、泣く泣く大府で泊まったH3号さん、よく眠れましたか。
 全員、定刻までに集合している。ワシャの舎弟の運転するワゴン車に乗り込み、ツアーに出発する。
 まず、北上する。安城市の北の端を横断する東海道に出るためである。安城濃尾平野の東に位置している。だから、東を見ると遠く三河山地の山影が連なる。その東の連なりに一か所くびれがある。そこを東海道が通っている。三河吉田(豊橋)を15日に出て、そのくびれから濃尾平野に顔を出して、小豆坂を下りて岡崎城に入った。

 今川義元は16日に岡崎城を出立している。東海道を西にむかって池鯉鮒(知立)まで駒を進めるためである。駒と言ったが、義元は馬上にない。伝承によればかなりの短足だったらしく騎馬が得意ではなかった。足が長かったとしても高貴な血統ゆえ、輿を多用したことは間違いない。
 岡崎から池鯉鮒の間は、平安時代から広大な荘園だった。矢作川から分かれる細流の恵みを受け、物なりのいい土地柄と言っていい。
 旧暦の5月16日、今でいうと7月の上旬くらいか。梅雨の合間、兵の担ぐ輿の上で雲の騒ぐ空、田植えの終わった水田を眺めながら、義元、何を思っていたか。

 午前9時20分、車はまだ東海道を走っている。安城を出て、知立に入ると、見事な松並木が現れる。安城市にも何本かの松が残っているが、知立の松並木は空を覆って圧巻である。

 午前9時30分、知立神社到着。『官本三河記』にはこう記されている。
《永禄三年五月上旬、義元率いる四万余の軍勢が、尾張にむかって出発した。十七日に池鯉鮒に着陣する。》
 当時、知立神社の神主は永見氏である。永見氏は神社の南側にある知立城の城主でもあり、三河豪族の一人であった。永禄3年当時、本殿は田原の戸田弾正のために焼かれており、義元は南の館の方に陣を張ったと思われる。
 神社境内に1509年に再建された多宝塔が立っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Chiry%C5%AB_Jinja_tahoto.jpg
知立神社に立ち寄った義元もこの塔を目にしたことだろう。(続く)