桶狭間の戦い その1

 桶狭間の合戦は、初夏の戦いだった。だから、少し時期外れでもあるが、今週末の読書会の一つのテーマでもあるので、ちょっと書いておきたい。

 永禄3年(1560)5月10日、駿河国府の今川館の周辺は騒然としていた。今川家が西に国境を接する宿敵織田を潰すために、最終戦を仕掛けるための大動員であった。織田を潰し、その先の齋藤道三を踏みにじって、上洛を目指していたという説もあるが、現実的に今川義元の戦力では、行く先々の戦国大名と戦いながら、兵站線を伸ばしながらの上洛は難しいものと思われる。
 一説によれば2万5000とも言われる兵員が今川館に集結したことになっているが、そこまでの数はなかっただろう。領国内の総兵力として、そのくらいの動員力は持っていたが、まるっきり領国を空き家にして戦争に行く大名はいない。いくら平和条約を結んでいるとはいえ、北の武田も東の北条もついこの間まで戦争をしていた相手なのである。そこここの砦に、抑止力としての兵員はある程度残さざるをえない。とすると、全兵力の70%の1万8000程度が、対織田の西部戦線に投入されると考えるのが妥当だろう。
 この5月10日出立の軍勢は、上洛を目指すものではないと言った。それは、間違いないと思うが、それでは、義元が上洛をまったく考えていなかったかというと、それも誤りだと思っている。
 少なくとも駿河遠江三河尾張の一部を押さえている義元は、有数の大大名であり、将軍家の継承順位からいえば、足利、吉良について三番目の位置にあり、現状、上位二家が衰退してしまった以上、今川家の出番であることは間違いのない事実なのだ。そのことを義元が意識していないわけはない。上洛への思いは、義元の心底にあるけれども、それを実行に移すのは今ではなかった。取りあえずは、三河守に任官したことでもあるし、未だ膠着した東尾張戦線をまず決着させ、領国として認められた三河の安定的な経営が重要だと考えている。そして、できれば尾張併呑のための楔を、天白川の西に打ち込んでおきたかった。これが当面の重要施策であり、その事業完遂のために御大将自らのご出馬と相成ったわけである。

 もし、あなたが東京方面から新幹線に乗られたなら、その時に確認をしておいて欲しいことがある。
 新幹線で名古屋に向かう時に、静岡駅の手前から進行方向にむかって右手、このあたりは新幹線が北東方向から南西方向に走っているため、厳密に言うと、北西の方向を見てほしい。静岡市の中心部、駿府館のあたりが見えるわけだが、義元がどういった環境で育ったか、町自体がどういった地形の中に佇んでいるのかを見てきてくだされ。
 そして、掛川、浜松、豊橋と続く新幹線の線路がまさに義元西進のルートでもあるのです。そのあたりも400年前に想いを馳せながら風景を楽しんでいただきたい。
 さあ、豊橋駅を過ぎたら要注意。最初のトンネルをくぐると蒲郡市に出る。これは、義元西進のルートとは異なっている。今川軍は海側のルートではなく、その北の宝飯の山越えのルートをとった。
そんなことはどうでもいいのだが、蒲郡を越えてまたすぐにトンネルに入る。この隧道を坂野坂トンネルという。このあたりも山が海岸線近くまで迫っている地形で、三河の東半分が山の多い地形だということがわかる。このことをとらえて尾張人は「三河は人の数より猿の数の方が多い」と言われる所以である。
 そして、ここが一番重要なのだが、このトンネルを出るところを感じていただきたい。
静岡から、ここまで、途中途中に平野はある。しかし、それはエリアの限定された小平野でしかない。ところが、坂野坂トンネル(実はもう一つ小さな隧道があるのですが)を越えた辺りから視界が一気に開ける。その辺りから、愛知、岐阜、三重の三県にまたがる広大な濃尾平野の東の端に出るのだ。ここから進行方向に視界を妨げる山は見えない。そのあたりの感じをつかんでいただければ、またおもしろいお話をお聞かせできると思う。

 さて、10日に第一陣が出立した。その後、第二陣、第三陣と続き義元の本陣が出立したのは12日のことである。そして、その日、義元は藤枝に宿している。駿府城から20キロである。大軍の移動といっても少し遅い。物見遊山の旅といった風情だ。翌13日、義元は掛川城に入っている。これも1日20キロの進軍スピードである。14日、引馬(浜松)の城に入った。ペースは相変わらず。
 15日に三河吉田城(豊橋)、16日、東海道を西にむかい、昼ごろに藤川宿を過ぎ、小豆坂を降りて濃尾平野に出たものと思われる。そして夕刻に岡崎城に入って泊まっている。
翌17日、義元、池鯉鮒(知立)に到達。そのころには先陣をつとめる松平勢、井伊勢は国境を越えて尾張東部丘陵に展開する織田方の砦(丸根、鷲津)に取り付き、併せて味方の大高城の兵糧入れに掛かっていた。
 さて、義元、18日の朝、池鯉鮒を出て、西に向かい10キロほど先の戦場に直行するのかと思いきや、方向を北に変えて、池鯉鮒の北10キロのところにある沓掛城に入ってしまう。ここで軍議が行われているが、どうして、義元は合戦場近くに野営をせずに、ここで足踏みをするような動きをしてしまったのだろう。1日、早く桶狭間周辺に到達していれば、信長の先を取れる。織田勢が戦場に到着する前に、適所を選びそこに陣屋を築き、周囲の様子をうかがって、敵の攻撃に対して脆弱なポイントを洗い出し、兵の手配りをして、陣を築くこともできただろう。
 それが沓掛に回り込んだために、桶狭間到着が一日遅れた。この不可解な行動によって信長に先手を取られることとなる。(続く)