「文藝春秋」9月号の大型企画は「運命を変えた手紙 86人のドラマ」である。ワシャの敬愛する司馬遼太郎の手紙や、小津安二郎から野田高梧(脚本家)への戦地便り、寺田寅彦の関東大震災報告などなど、名文が並ぶ。
なかでも、野口英世に宛てた母からの手紙にはハッとさせられた。教養のない東北の女が平仮名ばかりで書いた手紙なのだが、文章は、気持ちで書くものだということを改めて知らされる名文である。
《はやくきてくたされ。いしよ(一生)のたのみて。ありまする。にしさ(西を)むいてわ。おかみ(拝み)。ひかしさ(東を)むいてはおかみ。しております。》
また、凄まじい手紙もある。
小説家の佐藤春夫から友人の谷崎潤一郎に宛てた絶交状だ。
「僕は君と倶に天を戴かない」と極め付きの言葉で谷崎に絶交を言い渡している。ことの次第はこうだ。
女好きの潤一郎が、妻の千代の妹のせい子とねんごろになっていた。ないがしろにされる千代に同情を寄せたのが、佐藤春夫ということになる。こういうのを四画関係と言うのだろうか。とにかく複雑な男女関係が続いていく。
大正10年に一つの結論が導き出される。潤一郎夫妻は離婚し、春夫が千代を妻にむかえ、潤一郎がせい子と同居するというものである。これがまとまれば八方円く収まるはずだったのだが、気まぐれな潤一郎が翻意し、ご破算にしてしまう。そのことに烈火のごとく怒った佐藤が憤慨して激烈な文を書くことになる。2500字にも及ぶ長文の恨み節だ。佐藤はこの手紙を書いた後、まだ想いが吐ききれなかったのか、続きを書き始める。追伸と言っていいものだが、これすら500字もある。さらに、佐藤は潤一郎の妻にも思いのたけをぶつけている。これも500字、併せて3500字の手紙が谷崎家に送られた。
翻意した潤一郎は、この手紙の9年後の昭和5年8月18日、兵庫県の自宅で記者会見を行い、千代との離婚を発表する。これに並行して、谷崎潤一郎、千代、佐藤春夫の連名で「我等三人このたび合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事とあいなり……」という挨拶状を新聞社や知人に送りつけている。
この離婚再婚劇は、新聞各社が面白おかしく書き立てた。このため、繊細な佐藤は大いに悩み酒に溺れるようになり体調を崩していく。
強かな潤一郎は、翌年には根津松子という女性と再婚している。いやー谷崎潤一郎、タフな男ですな。