長篠の合戦

 そうか、今日は「長篠合戦」の日だった。
 天正3年(1575)5月21日(旧暦では6月下旬〜7月上旬か)、三河国長篠設楽原(したらがはら)において織田徳川連合軍と武田軍が対決した。
 昨年の9月のことである。東京の友人たちが、愛知県に遊びに来てくれた。その時に長篠の合戦の現場を案内した。おもしろかったでしょ。

 長篠の合戦は、実は2つの戦いからなっている。一つは長篠城攻防戦であり、もう一つが鉄砲の三段構えで有名な設楽原の合戦だ。一般的には長篠の合戦というと、設楽原合戦をイメージされる方が多いのではないか。
 さて、その設楽原合戦である。「長篠合戦図屏風」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Battle_of_Nagashino.jpg
6曲1双の屏風を見ると、左から織田徳川連合軍、右から武田軍が軍兵を進めている。合戦は右から4扇目に描かれる連吾川を挟んで展開し、全体の印象としては、合戦場の幅を狭く、奥行きを長大に描いている。だから、この合戦図を鵜呑みにすると、「3000丁の鉄砲が並べば大層な破壊力だったに違いない」と思ってしまう。
 でもね、現場に入ってみるとずいぶん違う。見ると聞くとでは大違いである。実際の戦場は全長2.5キロの幅をもち、奥行きはというと狭いところでは200メートルもあるまい。ものすごく横に長い戦場なのである。ここに3000丁を3段構えに配置しよう。そうすると2.5メートルに1丁という布陣になる。これで果たして突貫してくる武田軍に効果があったのだろうか。
 信長の公式記録である『信長公記』では千丁と記載されているが、この数を信用するならば、7.5メートルごとに銃兵が3人ずつ固まっていることになる。これでは弾幕を張ろうにもスカスカじゃん。

 ある人は言う……
《武田の騎馬武者は、三段構えの織田鉄砲隊の間断ない斉射の格好の的となり、設楽原を血にそめてあいつぎ戦死をとげた。鉄砲が騎馬軍団を制した――その意味で長篠の戦い戦国史のターニング=ポイントとすることができる。》
 間断ない斉射はなかった。
 真実はこうだ。遠征軍である武田の兵站線は伸びきっている。武田軍は4月末には長篠城周辺に軍を展開しているから、すでに20日以上の長期の滞陣となっている。東三河の拠点である長篠城を攻めあぐねている間に、織田徳川連合軍のほうは、連吾川西岸に強固な陣地を築いてしまった。そのことを知った勝頼は戦いを焦り、長篠城の包囲を解いて、設楽原に向かう。20日も戦いの中にあった武田軍は疲弊している。その点、織田徳川連合軍は、戦力体力ともに温存したままの決戦である。そりゃぁ結果はあきらかでしょう。