設楽ヶ原散策のつづき

 設楽ヶ原である。
 世にいう「長篠の合戦」は、実は二つの戦いから構成されている。一つは、長篠城の争奪戦である「長篠城攻防戦」、もう一つが、織田徳川連合軍と甲州武田軍との野戦である「設楽ヶ原の合戦」である。この二つをもって「長篠の戦い」とか「長篠合戦」と呼ぶ。
「長篠合戦」は、まず5月10日に「長篠城攻防戦」によって始まる。厳密に言えば、甲州武田軍が長篠城周辺に展開し始めるのが、5月1日なので、そこから神経戦が始まったと言っていい。「長篠城攻防戦」は包囲軍1万5000、籠城軍500という戦いとなった。「城攻めは3倍の兵力をもってしなければ落とせない」というのがこの頃の常識である。30倍の兵で取り囲んだ武田軍にすれば楽勝の城攻めのはずだった。ところが長篠城は落ちない。
 武田勝頼にすれば、さっさと城を陥落させて守備固めをしたかった。いずれ織田・徳川の連合軍が進駐してくることは解っている。その時の戦を有利に展開するためにも長篠城は取っておきたい。
 結果として、織田・徳川連合軍が設楽ヶ原に着陣する18日になっても長篠城は落ちなかった。そればかりか、長篠城に手間取っている間、連合軍側に陣地構築の時間を与えてしまったのである。
 馬防柵、土塁、逆茂木などを連吾川西岸に築きあがった。本来なら、連合軍を迎え撃つ武田軍のほうこそ、陣地を造っておかなければならないのだが、長篠城が簡単に落とせるという楽観論が、その準備を怠らせた。
 数の上でも連合軍は優っている。その上に鉄壁の陣地を連吾川沿い3kmにわたって敷いている。その上、別働隊4000が長篠城の救援に向かった。ここにきて武田軍は、挟撃の危機に陥ったのだ。こうなると引くに引けない。引けば追撃され、甚大な被害を出す。ならば武田軍の得意な野戦に持ち込んで、一戦を勝って、引くに有利な状況をつくることが良策だろう。そう踏んで、長篠城包囲陣をはらって設楽ヶ原に展開し始めた。それが5月20日のことである。しかし時はすでに遅かった。
 連合軍の迎撃態勢は仕上がっている。攻撃側の武田軍は劣勢である。そもそもが戦を仕掛けてはいけない状況だった。負けるべくして負けた、これが長篠合戦、設楽ヶ原の戦いのすべてである。
 けして信長考案の鉄砲三段撃ちが功を奏したということではない。設楽ヶ原にある歴史資料館の屋上から戦場となった連吾川を俯瞰しながらそんなことを思っていた。