(上から続く)
彼岸花の咲き誇る長篠城跡を歩き、その後、設楽原決戦の連吾川周辺を散策し、設楽原歴史資料館にも立ち寄った。その後、帰路にわがままを言わせてもらって野田城址を訪なう。
新城市の南部、国道151号沿いにある野田城は武田信玄が狙撃された城として有名である。国道から東に100mほど入ったところに野田城址はあった。北と南に谷が深い。西から東へ三の丸、二の丸、本丸の順に並んでいる。本丸の先に侍屋敷があって、そこからはなだらかな傾斜がついている。連郭式の平山城だな。南付きの生活道路に車を停め、石段を踏んで二の丸に入る。おおお、外から見るよりも広いのう。奥行きがかなりある。二の丸と本丸をつなぐ土橋が残っている。程度がいい。土橋を何度も踏みしめて天正の世をイメージする。
全体をぐるりと回ったが、なるほど、外観から受ける印象より広くて堅牢な城のようだ。信玄は、この後にひかえる織田との決戦の布石に野田城を確保しておきたいと思った。そして、ワシャと同様に、外観から「小城」であると思ったに違いない。なめて掛かった分だけ、城攻めに時間を費やしたのが祟った。信玄は、病か、あるいは狙撃によって指揮がとれなくなる。このことにより、甲州武田軍は野田城攻めをあきらめて、北をめざし落ちていくことになる。そして信玄、信濃の地を踏んだところで力尽きてしまった。まさにこの野田城から甲州武田の没落が始まったといっていい。武田家にとっては因縁の城なんんですね。
きれいに整備された長篠とは違って、野田城はずいぶん荒れていた。整備をすれば「信玄殉難の地」とかで売り出せるだろう。結構、集客が見込まれると思うが、地元にはそんな気はなさそうだ。
その後、遅い昼食を新城市内でとって、東京から来ていただいた皆さんを近くの私鉄駅までお送りして、長篠への旅を終えた。野田城はちょいと余分だったが、実に面白かった。めでたしめでたし。