もし守山崩れが…… その2

(上から続く)
 戦国中期に日本列島の中央部で100万石の封土を有する利は計り知れない。同時期に武田信玄の父は甲州23万石、梟雄といわれた斎藤道三はまだ美濃一国をまとめきれていない。
 そんな状況で尾張南部を押さえる織田家など物の数ではない。1万石で250人の動員力があるとすると、松平家は2万5000の兵力があり、織田は7000程度でしかない。桶狭間で両軍がぶつかったとしても松平の勝利に終わるのは目に見えている。天才信長はまだ3歳、三河兵の猛攻にあえなく那古野城で焼け死んだかもしれない。これにて信長の未来に築かれるはずの天下布武の時代は消滅する。
 混乱する美濃を平定するのにさほど時間は要すまい。蝮の道三もまだ力不足だ。美濃平定に3年かかったとしても1540年には180万石の大大名が稲葉山城岐阜城)に入城し濃尾平野を見下ろすことになるだろう。清康30歳である。
 彦左衛門の言う「30まで生きていれば」の根拠はここにある。彦左衛門が考えても、ワシャが考えても、清康が生きていれば松平(徳川)の天下は50年早く実現していたと思う。