美濃

 16世紀初頭の美濃のことである。18の郡からなり、石高は60万石、国主は源頼光の流れを汲む土岐家である。ただ、この土岐家、百年にわたる無為徒食ですっかり没落し、統治能力を失っていた。家政は衰えたが、生殖能力だけは旺盛だったらしく庶流が多く、美濃国内に分派している。多治見氏、明智氏、饗庭氏、池田氏、揖斐氏、蜂屋氏など百余家を数える。これら庶族が300余の城を建て、その周辺の地所を治めていた。
 美濃の諸郷を走りまわっていて気がついたことがある。それぞれの郷村が河川や山系で程よい大きさに区切られているということにである。西美濃は木曽三川によって、奥美濃東美濃は盆地ごとに住み分けられていた。これだけはっきりと区分けされていると争いも起きにくいのではないか。戦国時代の中期にさし掛かって、美濃の隣国の尾張三河信濃、近江などが火のついたような争いの中にあるというのに、美濃衆はそれぞれの在所在所で、日々を安穏と暮らしていたのである。
 その脆弱性に目を付けたのが戦国の梟雄、斉藤道三だった。腐った土岐家に食いこみ、ばらばらの庶家を懐柔し、あるいは武力で脅し、美濃を統一していくわけである。このあたりの話は、司馬遼太郎『国盗物語』(文藝春秋)に詳しい。
 
 美濃は元々「三野」と記されていた。三野は古い地図によれば、三野は美濃の中央にある太田盆地(美濃加茂市)に付された地名でしかない。柳田国男は、「一方が山地で、わずかな高低のある丘陵地」のことを指す言葉が「ミノ」だと言う。その限定的な地名が国名にまで拡大したという説、あるいは「美しい野」から由来するのではという説もある。これは憶説に過ぎないが、西美濃は木曽三川に支えられた水の豊かなところである。「ミ」は水がずっしりと浸すことを指すので、水の豊かな野から「ミノ」と呼称されたとも考えられる。どちらにしても、現在のところ確定的なものにはなっていない。
 先週、ワシャの車は美濃を貫く国道41号を北上していた。実際に走ってみると、養老、大垣から西に広がる濃尾平野は、美濃加茂あたりまで美しい野になっていることがわかる。
 美濃加茂市街を抜け、飛騨川沿いに開けた川辺町差し掛かるころ野は尽きる。このあたりから川の両岸には衝立のように迫る緑の山々が現れる。この圧倒的な山風景は、その先の飛騨、そのまた先の越中まで延々200キロも続く。ああ日本は山国なんだと実感した。