ダムの無駄

 今朝の朝日新聞「声」欄に、「徳山ダムを見て考えたこと」という投稿が載っていた。投稿した人は広大な人口湖を眺めて、「費用対効果の認識もなくひとごとのような予算の執行と責任のなさに愕然とします」と嘆いている。
 ワシャはかつて徳山村がダムの底に沈む前に訪れたことがある。揖斐川の最上流にはまっしろな石の河原が広がっていた。徳山の中心の上開田集落には、木の橋がかかり、橋のたもとには何百年の風雪に耐えた大樹が繁り、その木陰では古老が居眠りをしている。トトロの里を髣髴とさせる佇まいを見せていたっけ。
 水底(みなそこ)に沈めるというのは、息の根を止めるということである。渇水のときなんかにダムの底が露呈することがあって、砂漠のような、グランドキャニオンのような死んだ風景を見せることがあるけれど、まさに徳山ダムは、揖斐川沿いにあった貴重なふるさとの喉元を締め上げて殺してしまった。
 政治家が、役人が、土建業者が、わずかな金を懐に入れるために、山里に営々と続いてきた生活や生態系を惨殺したのだ。
(下に続く)