(2)首長たちの変化

 名古屋市の新市長になった河村たかしさんは、市役所に出勤するのにバスを使っている。その一点を見ても、新市長が庶民の側にいることが伺える。
 河村さんほど極端ではないにしろ、ふんぞり返らない東国原知事橋下知事の登場で、知事や市長への距離感が近くなってきていることは確かだ。今までは、何か恣意的に「首長」というのはどえりゃー偉い人だと思わされてきたところがあるが、実は違うんだということを河村さんは体現しようとしている。

 それでも選挙を勝ち抜いてきた首長への敬意は払う必要がある。それは、それが秩序であるからだ。しかし、そのことを履き違えてしまうマヌケな首長もいる。例えば前宮崎県知事の安藤忠恕や、この間、逮捕されて議会を解散しちゃった愛知県西尾市長の中村晃毅などである。あるいは房総半島で暴走している青春知事なんかも、その範疇に入ってくるかもしれない。こういう低レベルな首長には敬意など払う必要はない。

 今朝の朝日新聞「声」に「激突、名古屋市長選」と題して3人の一般人の投稿が掲載されている。多分、東海地方だけだと思う。ここに、77歳の主婦の「河村新市長の名古屋弁が耳障りだから対立候補を支持した」と言う意見が載っている。そうじゃないでしょう。そんなことで市長を選んでどうするのか。きれいな標準語で話せばそれでいいというのだろうか。首長なんてものは奥の院に奉られている秘仏ではないのだ。少しばかり泥臭かろうが、方言丸出しだろうが、いかにクリーンで、いつも市民のことを第一に考えていればよろしい。放言などという瑣末なことなど、どーでもいいのだ。