菜の花忌

 司馬遼太郎さんが彼岸に旅立って、もう13年経ったのか。時の過ぎ去ってゆくのはとても速い。年齢を重ねれば重ねるほど無情なほど速い。
 司馬さんは1996年2月12日に身罷られた。その日の産経新聞「風塵抄」は土地投機に踊ったバブルの狂気をたしなめるものだった。
《こんなものが、資本主義であろうはずがない。資本主義はモノを作って、拡大再生産のために原価より多少利をつけて売るのが大原則である。その大原則のもとで、いわば資本主義はその大原則をまもってつねに筋肉質でなければならず、でなければ亡ぶか、単に水ぶくれになってしまう。さらには、人の心を荒廃させてしまう。》
 13年前に司馬さんが警告したにも関わらず、その後、市場原理主義などという怪物が世界を席巻し、再び日本は大不況に突き落とされた。
 文藝春秋の巻頭随筆「この国のかたち」は、「役人道について」という口述筆記で締めくくられている。
《明治の政治主導による資本主義が形を成したのは、汚職しなかったからだけです。金銭の関係のない明治の役人たちというのは、いまから考えても痛々しいほどに清潔でした。》
《いまのような公共土木工事における秘密談合制というような不埒なものは、日本の伝統にはありません。》
 週刊朝日に連載された「街道をゆく」は3月15日号をもって未完で終了した。最後の文章は、こう終わっている。
《ついでながら、信玄はこのあと三河に攻め入ったが、野田城包囲の陣中で病いを得、軍を故郷にかえす途次、死ぬ。死は、秘された。》
 短い文章の中に「死」が2度出ている。この直後に司馬さんが倒れたことを重ね合わせれば、いかにも暗示的に見える。そして、司馬さんの歩いた街道もわが三河で尽きた。もう少し、故郷の三河について語ってもらいたかったが、残念ながらそれは叶わなかった。
 司馬さんは、小学6年生の教科書に「二十一世紀に生きる君たちへ」という文章を載せている。麻生首相も、人事院の谷総裁も一度じっくりとこの文章を読んだほうがいい。そしてあらためてこの国のかたちを考えるべきだ。
《書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。》
 と結んでいる。司馬さんが愛した子どもたちに、明るい日本を残さなければならない。漢(おとこ)なら潔い退き際を見せてみろよ。