「農奴」の余韻 その1

 余韻をまだ引きずっている。農奴の苦悩の眼差しが脳裏にこびり着いている。この一点だけでも彼の映画は名作と言えるのではないだろうか。だから、その余熱を利用して、何冊かチベット問題の本を読み直しましたぞ。
 その中の一冊に、「チベット平和解放に関する17条協定」を見つけた。1951年に中国共産党政府が強大な軍事力を背景にしてチベット政府に突き付けた条約である。第1条には「チベット人民が中華人民共和国の大家庭も帰ってきた」とある。この条で、元々チベットは中国の一部だったと高らかに宣言しているのだ。
 ホントかいな。ワシャは『世界史年表・地図』(吉川弘文館)を延々と調べましたがな。

 紀元前の中国、始皇帝の時代から前漢の時代、チベット化外の地であった。つまり漢人の言う中華ではなかった。2世紀の後漢の頃、朝鮮半島はソウル周辺まで後漢帝国に飲みこまれているにも関わらず、チベットは帝国の外である。五胡十六国時代も唐の時代も、あのジンギスカンの一族が世界帝国をつくった元の時代ですらチベットは中華の版図外だった。
 時代は下り17世紀中葉、漢人の帝国である明を化外の民である女真族が滅ぼし清王朝を樹立する。18世紀に至り、清はチベットに対して硬軟織り交ぜた外交干渉を始めるのだが、19世紀に入って欧米列強の中国進出にともなって、チベットどころの話ではなくなってチベットへの関心を失ってしまう。
 その後、清帝国は東の海上に突如目を覚ました化外人の国「日本」と対決し大敗北を喫し、急速に崩壊していった。清の崩壊を受けて、1911年、チベットダライ・ラマ13世は「中国による庇護は必要ではなく、望んでもいない」ことを表明し、中国との国交を断絶した。

 ね、チベットは一度も中国の版図に組み込まれたことはないでしょ。にも関わらず1951年に強大な軍事力を背景にした中共不平等条約を押しつけられ、そればかりか「農奴」に代表されるプロパガンダ映画で洗脳まで余儀なくされている。
 2006年9月、ネパール国境に近いチベットヒマラヤ地域でのことである。「農奴」で菩薩兵として描かれていた人民解放軍兵士がチベット人(子どもも多数いた)に対して発砲をした。たまたまその一部始終を目撃した登山家は、まるで狩りでもするようだったとコメントしている。この狙撃事件で2名の死亡が確認され、数十名が行方不明になったという。
 北京五輪以降、チベット問題への関心が急速に収縮している。人心は移ろいやすいが、この問題だけは風化させてはならない。「農奴」を観て改めてそう思った。
(下に続く)