不透明な時の終わり

 ワシャはコラムニストの勝谷誠彦さんの有料メルマガを購読している。昨日はロス市警で自殺した三浦和義元社長のことについてだった。その中で勝谷さんは、結婚式で三浦元社長と偶然一緒になった時の印象をこう書いている。
《たいして言葉を交わさなかったが、爬虫類のような粘着質な感じと、そこから生じる煮ても焼いても食えないようなしぶとさは忘れられない。》
 この部分を読んで、ある小説家の一文を思い出した。
《(あれが二代様におなり遊ばすのか)とおもうと、心が暗かった。いいようもなく、不愉快であった。ちょうど、気味の悪い長虫でもみたような気味である。》
 司馬遼太郎の『功名が辻』で、主人公の千代が初めて関白秀次に拝謁した際の印象である。長虫とは蛇のことだ。司馬さんは「殺生関白」と呼ばれた愚かな若者を千代の口を借りて爬虫類に例えた。

 図らずも時代を超えた2人の人物が、2人の文章家によって「爬虫類」に模された。ワシャはテレビ映像や写真でしか三浦元社長の表情を見たことがないが、勝谷さんの持った印象には首肯できるものがある。そして、司馬さんの膨大な文献に支えられた想像力には絶大な信頼を置いている。このことから、三浦元社長も秀次も爬虫類の持つ残忍さのようなものが表出していたものと考えるのが妥当だろう。
 ワシャの書庫で1冊の本が長い間眠っていた。三浦和義『不透明な時』(二見書房)という本である。発行が昭和59年だから四半世紀ほど暗い書庫の奥で息を潜めていたわけだ。この本の表紙は、紺のカメラマンコートを着て煙草を燻らせる三浦元社長が、裏表紙は白のソアラにもたれ掛かって腕組みをするスーツ姿の本人の写真がでかでかと載っている。これを見る限り、この人物は目立ちたがりのきざな男だね。
《公卿きざ、というものであろう。》
《どの村どの町にでもころがっている頭が悪いくせに小器用で小ざかしい若者なのであろう。》
 これは司馬さんの秀次評、ああ、だんだん両者がオーバーラップして混乱してきたわい。