故郷の葬送

(金曜日「故郷」の続き)
 伯母には5人の子どもがいる。この5人にも子どもが3人ずつ生まれた。だからその伴侶も含めるとそれだけで40人ほどいる。その上、ひ孫までいるから座敷(回り廊下までいれると五十畳)はもう直系だけで大入り満員だ。いやー、その繁殖力は恐れ入る。三親等姻族なんぞ出る幕はないから、竃(へっつい)の脇でひ孫の舞ちゃん(幼稚園児)と遊んでましたがな。

 葬式は粛々と執り行なわれた。自称落ち武者集落の野辺の送りは独特だ。まず葬儀の前に荼毘に付す。それから二日二晩の葬礼を行って、三日目になると五色の短冊で飾られた葬列を組んで埋葬地に向かう。矢作川左岸を1キロほど下ったところから、脇の渓谷に入り込む。読経を唱える僧侶を先頭にして獣道を登っていく。息を切らして坂を登ること10分、突然、山の中腹にぽっかりと空いた草地に出た。周囲を叢林に囲まれたテニスコート2面ほどの奥津城(おくつき)である。
 街道から入りこんでいるので、集落の人間以外がこの草場に辿りつくことはない。ついこの間までは土葬が常態であったために、墓所のあちこちに穴が空いている。気をつけないと足がはまって「足が取られたのじゃー!」ということになりかねない。葬列を組んで来たからいいようなものの、一人で来いといわれても少しばかり躊躇しそうな場所でしたぞ。
 先年、亡くなった伯父の埋葬場所の横に穴を掘って、伯母の遺骨を納め、一連の葬礼はつつがなく終了した。

 岐阜からもどる車中で、ワシャはある違和感を抱えていた。それは十数人の直系の孫たちのことである。葬儀を通じて、彼らには一様に悲しさがなかった。神妙ではあったが、祖母が亡くなったことに対していささか冷静に過ぎるような気がする。葬式というより法事といった雰囲気が漂っていた。
 20年前にワシャの祖母が93歳で身罷った時、ワシャは取るものも取り敢えず駆け付けて、冬枯れの古木のような祖母の亡骸の横で泣きながら寝入ったものだ。センチメンタルといえばそうなのかもしれないが、祖母と過ごした時間やらあの頃の風景やらがどっと押し寄せてきて、感情を抑えられなかったのである。
 そういった姿が伯母の孫たちにはなかった。ドライなのか、あるいは伯母と共有した時間の希薄さゆえなのか……
 ワシャにとっての故郷は、やっぱりワシャの祖母に尽きるのだが、その風景のなかに目立たないが伯母も存在している。祖母ほど濃密な関わりを持たなかったが、桑畑で桑の実をくれた伯母を思い出せばしんみりとする。
 帰路、岡崎の岩津あたりから雨になった。