故郷(ふるさと)

 ワシャはワルシャワで生まれた。嘘です。ワシャは愛知県西三河某町の駅前に生を受けた。生まれた町に今も住んでいるから「故郷はどこか?」と問われれば、まさにパソコンを打っているここが故郷ということになる。だからウサギが美味しかった彼の山もないし、小鮒を釣った彼の川もないということになる。
 でもね、故郷らしきものはあるんですな。
矢作川を遡り、奥矢作湖のそのまた奥の渓流沿いに、美濃の山々に囲まれて、隣の家まで1キロもそば道を行かねばならないような不便な里があったとさ。今でも囲炉裏端で平家の落ち武者伝説が囁かれるような田舎が母親の実家だった。
 あ!それでワシャは時折、「ずいぶんと軽くなるぞよ」などと高貴な物言いをしてしまうんだな。そういえば顔立ちもどことなく雅であるぞよ。
 話を元に戻す。
 物心がつかない頃から夏休みになると母親の故郷に帰省していた。少し大きくなると、母親は、ひよわなワシャを祖母と伯父夫婦に預けさっさと町に帰って行った。今でいう山村留学の走りだったのかもしれない。
 母親が帰ってしまうと、急に心細くなったんでしょうな。最初はビービー泣いていたのだが、子どもというのは適応能力が高いのだろう。すぐに慣れて、番犬のエスとともに野山を駆けまわっていた。
 萱葺きの母屋、白壁の土蔵、梅の古木、裏山に並ぶ屋敷墓、あり地獄、山桑の匂い、石垣に棲んでいるカナヘビ、竹林のざわめき、スイカ、風の通る四八畳、縁側の昼寝、ヒグラシ……
 伯母の作る夕餉の田舎味噌が匂ってくると、そろそろ祖母と伯父が野良から帰ってくる。背負い籠をかついだ祖母が坂を上がってくるのを見つけると、ワシャは縁側から飛び降り、裸足で庭を駆けてゆく。あの籠にはいろんなものが入っているはずだ。祖母の腰の辺りにしがみつくと、前掛けから土の臭いがした。
 夜の帳がおりると、虫の集き(すだき)の他に物音はしない。電灯は囲炉裏の部屋だけだ。伯父の子どもたちは、この時期、皆、家を出て生活をしていた。だから徒広い(だだっぴろい)家の中には祖母と初老の伯父夫婦とチビチビの4人きりだ。時代は昭和30年代後半、山村では、家の中にも闇が多かった。オバケや妖怪はそこここに棲息していた。チビチビは奥の仏間の闇が怖いので、祖母にくっついて食事をしたものじゃ。
 その祖母も20年前に鬼籍に入り、伯父も先年亡くなった。最後まで健在だった伯母が昨日九十年の人生に幕を下ろした。
 故郷でチビチビが一緒に過ごした人々はみんないなくなった。