お盆に考えた。一昨日夕刻に、ワルシャワ家の墓所に行って、墓掃除をして花を代え経を唱えてきた。昨日は旦那寺の住職に来ていただき仏壇の間で、ソーシャルディスタンスをしながら盆迎えの法事を執り行った。住職はこういった時期なので、お茶も飲まずに帰っていく。武漢ウイルス、日本の文化まで壊すか。
ワルシャワ家の仏壇には、もちろん先祖代々の仏様が入っておられる。しかし、ワシャが直接知っている仏様は、ワシャの祖父と祖母だけである。あとは一面識もないから知らない。若くして亡くなった伯母の写真や、別の伯母の油絵で描かれた肖像画は見たことがあるけれど、ワシャが生まれる前に他界しているので、2人ともなんの思い出もない。要は知らない人なのだ。
ワシャの祖父母が亡くなって随分の時が流れた。それでも、幼い頃に一緒に暮らしているので、いろいろな記憶が残っている。それこそワシャが3歳くらいの頃、最寄りの踏切まで祖父に抱かれて列車を見に行ったりしたことも、微かではあるが思い出として残っている。祖母にはかわいがってもらった。ワシャは「おばあちゃんっ子」と周囲から言われるくらいに祖母になつき、母親はいまだに「だから甘えん坊に育ってしまった」と悔やんでいる(笑)。
それでも、その祖父母の記憶も、ワシャとワシャの妹くらいで失われてしまう。ワシャの息子たちにすれば、まったく接触したこともない知らない人なのだ。いわんや息子たちの子供においてをや。
そういうことなのだ。
百年も過ぎれば、世代は3つ4つ重ねるわけだが、4代前のご先祖様っていうのは、まったく知らない人で、過去帳とか系図で知るのが関の山ですよね。
それに周囲の人々もごっそりと入れ替わるわけなので、そういった記憶もなくなって、せいぜいお盆に「ご先祖様」という一括りで手を合わせられるくらいか。
ずんごい偉人なら別でしょうけど、普通の庶民はそうやって少しずつ記憶の彼方へ忘れられていくんでしょう。寂しいような気もするけれど、その営みが人間社会そのものを形成しているのだろう。
ワシャの祖父母も、ワシャらの世代が消えるとともに本当に消えてしまう。またワシャらも、ワシャらを知っている人がいなくなったときに、真に消え去るということになる。
最近、90歳を超えた父親がパソコンの前に座って、せっせとなにやら書き残している。何をしているのかと思って、覗いてみると、ワシャは父親に、「祖父母の記憶を書き残しておいてくれ」と言ったことがあって、そのための執筆をしているそうな。いやはや、ご苦労さんなこって。
それでも、そういった文章として残しておけば、家のルーツのようなものが後世の子孫たちに伝わっていくこともそれなりの意味があるのではないか。
ワシャの尊敬する妖(あやかし)のニャンコ先生が、時おり口にする言葉に「いいヒマ潰しになる。人の一生などあっという間だ」というものがある。
夏目貴志の「友人帳」を狙っているのだが、夏目の死後に「友人帳」を譲ってもらう契約を交わす。この時に「なぜ奪わないのか?」という疑問に答えた言葉がこれだ。妖の永い一生に比べれば、人の一生など束の間のことなのである。だからニャンコ先生は瞬く間の夏目の一生に寄り添って生きることを決心した。
『夏目友人帳』は人と人、人と妖、妖と妖の出会いと別離、奇跡のような邂逅と永久(とわ)の別れ。せつないが何ものにも代えがたい一瞬が、風光明媚な南熊本を舞台に描かれて秀逸だ。
未読の方には、緑川ゆき『夏目友人帳』(白水社)をお薦めしますぞ。
ちなみにニャンコ先生の本名は「斑(まだら)」ね!