陰陽師の末裔

 今日が二十四節気の「清明」だからというわけではないのだが、実はね、ワシャは平安時代に活躍した安倍清明の末なのじゃ(嘘笑)。だから「呪(しゅ)」が使えるのだ。昨日も何人かの人に「呪」をかけてしまった。
 因みに「呪」というものが何だか解らないという人は、夢枕獏の『陰陽師』シリーズか『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』を読んでみると解る。解るかも知れない。解らないかも知れないので、簡単に説明しておこうか。
 夢枕の清明がこう言っている。
「呪とはな、ようするに、ものを縛ることよ」
「ものの根本的な在様(ありよう)を縛るというのは、名だぞ」
「この世に名づけられぬものがあるとすれば、それは何ものでもないということだ。存在しないと言ってもよかろうな」
「たとえば、博雅というおぬしの名だ。おぬしもおれも同じ人間だが、おぬしは博雅という呪を、おれは清明という呪をかけられている人ということになる」
 よく解らないですよね。拡大解釈をすれば「ものを縛る言葉」のようなものということになりますか。

 昨日、会社のお偉いさんを7人ばかりをワゴン車に乗せて名古屋まで出掛けた。いわゆる年度始めのお得意様回りである。運転手はその中で一番下っ端のワシャだった。ワシャの会社から名古屋までは1時間ほどの道中になる。静かに運転をしたかったので、車をスタートさせた直後にささやかな「呪」をかけておいた。
「飛ばします。気をつけてください」
 そう言っただけである。しかし、この一言でワシャが軽くアクセルを踏みこむたびに車内に緊張がはしるのが見える。「詰まらない話が始まったな」と思ったら、車線変更をしてほんの少しエンジンを唸らせるだけで、上司たちは話を中断することになる。
「そんなに急がなくてもいいぞ」
「ワシャくんは負けず嫌いだから」
「スピード違反で捕まっても知らないぞ」
 などと、笑顔を強張らせながら口走るが、ワシャはただ笑うのみで返事はしない。返事をすると「呪」にかかってしまうからね。
 
 ワシャのかけた「呪」は後々まで効き目が続く。役職者で次に車で出掛ける時に、「ワルシャワに運転させるのは止めよう」ということになり、ワシャはお役御免になるのであった。めでたしめでたし。