ゆとり教育の終焉

ゆとり教育」を押し進めてきた文部科学省寺脇研氏が、今月の10日に退職をした。「個性の時代」を求めたエリートは、バカな思いこみで時代を壊したまま文科省を逃げてゆく。
 6年前、寺脇氏はこう言っていた。
《教育における「選択のゆとり」や「反芻のゆとり」は、子どもたちに「気持ちのゆとり」を与えることにつながっていく。》
 子どもたちに「ゆとり」を与えても、優秀な子どもはその時間を塾に通い、バカな子どもは愚行に費やした。誰がやりたくもない勉強の「反芻」などするものか。
 寺脇氏、こうも言っている。
《「キレる」といった言葉で表現されている中学生の声を拾ってみると、他人と同じことをするのを強制されたり、「早くやらなくては脱落する」とせかされることが、彼らのイライラの一因だとわかってきたからだ。》
 これだからラ・サール、東大法という学歴秀才は困るんだ。すぐにキレるバカ中学生でなくたって、他人から強制されたり、急かされたりしたらイライラするに決まっている。でもバカは強制したり、急かしたりして馴致していかなければ人間としてモノにならないんだよ。
 白洲正子が『名人は危うきに遊ぶ』(新潮文庫)の中でこう言っている。
《きまった型があればこそそこに個性の相違が表れるのである。たとえば近頃のように、「個性の尊重」とかいって、一年生の時から自由にさせておいては、永久に個性をのばすことはできまい。》
 文部行政を司るのが、頭でっかちの学歴秀才ではなく、白洲さんのように物事の本質を見極めることのできる本物の人だったなら、全国で起きているいじめ自殺問題や、単位偽装問題は回避できたろう。
 どう言い訳をしようと、これらの問題の根本は中央の文部科学省にある。なぜ末端の小中学校が「いじめ0」で報告を上げざるを得なかったのか、単位の偽装までして受験シフトを組まざるを得なかったのか、文科省の官僚は胸に手を当ててよく考えてみるがいい。
 机上の空論を振りまわしたバカは文科省を去った。その著書に『中学生を救う30の方法』というのがあるが、今、読み返せば「プッ」と吹き出すしかないようなご高説である。早く無能な秀才を排除し、本物の官僚を登用してくれ。ロートルの伊吹さん。