文化3年5月25日(曇多い)
明け六つに仁王門前町の旅篭を出て、上野不忍池の北にある松平伊豆守下屋敷を左手に見ながら寺町をそぞろ歩く。天王寺の大屋根を右に置き中門前町をしばらく行けば、日暮の里である。ここらあたりが江戸台地の北の端だ。諏訪の台崖下からは遠くに霞む筑波山まで見渡す限りの関東平野である。
お見せできないが、ここからの景色は江戸の中でも格別に絶景と言われていた。近くは荒川の土手や千住の宿が見え、さらにその向こうには江戸川がかい間見える。『江戸名所図会』でも《高崖に架して眼下に千歩の田園を見下ろせり。風色もつとも幽雅にして四時の眺望たらずということなし》と絶賛している。
諏訪の台に目を転じれば、諏訪明神の境内、本日は閑散としていますぞ。桜の頃には床几が幾つも並べられ、花見の客で賑わっているのだが、梅雨の時期である。おまけにこの蒸し暑さも手伝ってさすがの江戸雀たちもここまで足を運ぶ元気はなさそうだ。それでも境内にある茶屋の娘が店の支度を始めている。暇つぶしにちょいと声をかけてみるべい。
「ねえさん、こんな日でも参詣の客は来るかね」
床几に雑巾をかけていた娘は手を休めて顔を上げる。
「どうだろうねぇ、雨さえ降らなければちっとは出るんじゃないかえ」
およよ、茶屋の娘、よく見ればいい女じゃないかいな。おお、これがかの有名な水茶屋の茶汲女か。かわいい娘を看板にして、鼻の下の延びた男を集めるって寸法だ。これなら多少の雨だって客は来るわさ。
おっと、そろそろ平成の世に帰る時間だわい。もう少し茶汲女をからかっていたいけれども、そうは問屋が卸してくれねえ。中途の半端ではございますが、それではどちら様もごめんなすって。