あっぱれな殿様

 徳川実記の慶安4年7月10日の記事にこうある。
《昨夜松平能登守定政。長子吉五郎定知を具して。東叡山の最教寺に入て遁世し。衣を墨染にかへて能登入道不白と號す》
 慶安4年(1651)というから、大坂夏の陣から36年後のことだ。参州刈谷城主の松平定政が、苛烈な浪人対策を批判した意見書を提出して刈谷2万石を返上してしまった。大名をやめて乞食坊主になってしまったのである。
「世の中は太平で穏やかなようにみえるが、内実は上下とも困り果てている。わが領地と武具を公儀に献上するうえ、困却している侍たちを救う資金にしてくれ」と意見書には認めてあったという。刈谷の殿様、潔いではないか。
 ただし幕閣は、この内容が幕政批判であることから、内容を吟味することもなく定政を精神異常者扱いにして身柄を拘束し伊予松山藩主久松定行(定政の兄)にお預けとした。
 この半年後に由比小雪が「幕政に定政の意見を反映させなかった」として慶安事件を起こし、その10年後、下総佐倉城主堀田正信が幕政批判の意見書を提出している。その中で「定政の意見を無視したことが問題を大きくした」と責めていた。結果、この殿様も乱心者として処理をされてしまう。いつの時代も真っ当な主張というものは真っ当過ぎるが故に権力に圧殺されていくのである。
 定政は己の思うところに従い、62歳の生涯を伊予松山で閉じる。その死を待っていたかのように、定政の息子たちは父の死の翌年、それぞれ蔵米1500俵、500俵を賜い寄合席に復帰するのである。家族にとっても定政は傍迷惑な人物であったに違いない。家禄2万石(実収1万石)が、たまたま篤実で真面目な父のために5分の1になってしまったのである。正義を通すということは高くつくものだと息子たちは実感したに違いない。まぁ考え様によっては8000石で後世の名を買ったと思えば気休めくらいにはなるだろう。

 江戸時代を通じて大名という職位を経験した者は概ね3000人くらいと言われている。その中においてこの定政や正信のように潔い人物というのは稀である。顕かに変人と言っていい。もちろん「潔さ」が死語となりつつある現代においては、何をか言わんやである。