能登入道不白

 以前に戦国武将の水野勝成について書いた。関ケ原合戦や大坂の陣徳川家康の軍団長として活躍している。勝成の父の忠重の姉が家康の母お大であった。そのお蔭もあったのだろうが、勝成は豪快な武者でもあったので、家康に重用された。
 お大は、後に家康の父に離縁され、その後、尾張国知多郡阿久比城主の久松俊勝に嫁す。お大はそこで三男四女をもうけたというからまことに健康な女性であったらしい。
 お大の久松家での三男が定勝という。家康の異父弟という縁もあったのだろう。もちろん家康の旗下にあって戦功もあげた。このため大坂の陣の後、伊勢桑名11万石に封ぜられる。
 定勝はまた男子に恵まれた。長男の定友は若くして亡くなっている。だから次男の定行が跡を継いだ。定行は伊勢桑名から伊予松山に移封され15万石。三男の定綱は兄の跡を継ぎ伊勢桑名で11万石。四男の定實は、これは出来が悪かった。旗本で1500石。五男の定房は、関東周辺で4万石。六男の定政が三河国刈谷で3万石を領す。5人の合計で32万1500石はかなり大きい。お大の存在は田舎領主だった久松家に莫大な富をもたらしたわけである。
 さて、六男の定政のことである。多分、兄弟の中では一番おもしろい人物だと思う。
 慶安4年というから大坂の陣の36年後である。まだまだ世間には戦国の残滓のようなものがあちこちにへばりついている。取りつぶしになった大名の家来たち、いわゆる浪人の問題が顕在化してきた時代でもあった。
 そんな時期に、定政は浪人の救済を提案し、その財源として自分の領地3万石を投げ出したのである。これは幕政批判だった。定政は剃髪し能登入道不白(のとにゅうどうふはく)と号し、大名の生活を捨てて江戸の町で托鉢坊主になってしまう。中堅企業の社長が、屋敷や会社を手放して、乞食を始めるというんですぜ。
 しかし、体面を重視した幕府はこれを許さず、捕えて兄の定行のもとにあずけ、ことをもみ消したのである。
 それにしても家を栄えさせるために功名を立てようと躍起になっていたのは、つい30数年ほど前のこと。それが、功名で得た封土をポイと投げ出すその無欲さはいかばかりであろうか。ワシャは定政の、この恬淡さが気に入っている。
 幕府は、定政を狂人、変人として処分をしたが、いやいやなかなかの炯眼の持ち主と言えるだろう。そのわずか14日後に由井正雪らによる「慶安事件」が起きている。幕府が定政の意見を取り入れていれば、あるいは浪人の反乱は起きなかったかもしれない。

 家康の甥である松平定政、もう少し研究してみてもおもしろそうだ。