時間旅行

 時々むしょうに古戦場に行きたくなる。世知辛い世間の中で息が詰まりそうになると歴史の風に当たりたくなるのだ。
 週末、高速道路を疾走して長篠城新城市鳳来)へ行く。
 久しぶりじゃぁぁぁぁ!久しぶりに身を置く長篠城である。城址の桜はもうすでに盛りを過ぎてはいたが、それでも三分ほどの花を残しておりまずまず華やいでいる。また5月上旬の「のぼりまつり」の準備が進んでいるのだろう。本丸後には種々の武将の幟がはためいている。
 この場所で430年前に500人の三河勢が2万5000の甲州勢を迎え撃ち20日も持ちこたえたのである。文献によればこの本丸から見渡せる周囲の山々に武田軍が進駐し布陣をしたという。城に寄っていたとはいえ500の小勢である。その心細さはいかばかりであろうか。
 南信州から東三河の北部を押えた武田は織田(名古屋)と徳川(浜松)を分断する作戦に出る。このため長篠を襲い、その延長戦として吉田城(豊橋)を狙っているのである。
 しかし弱冠二十歳の城番奥平貞昌は踏ん張った。武田軍の火を吹くような猛攻に必死に耐えた。5月14日には総攻めがあり、城は四面から攻め立てられた。貞昌は多くの家臣を失いながらもそれをしのいだがさすがに家臣の中に悲観論者が現われる。城主が切腹し恭順を示し開城をしようというのである。その手もある。1年前には遠州小笠の高天神城は徳川の後詰(援軍)がなく落城していた。開城に城兵の気持ちが動きつつあるとき一人の勇者が岡崎への伝令をかってでる。鳥居強右衛門(すねえもん)である。彼は蟻の這い出る隙間もないほどに固められた包囲網を突破し、岡崎の家康の元まで救援を請いに走り、家康の「諾」を取りつけると取って返し城に入りこもうとしているところを武田兵に捕縛される。
 強右衛門、磔にされながらも「援軍はそこまで来ている。各々方もう少しの辛抱じゃ」と叫び串刺しにされてしまう。しかし、強右衛門の命を賭けた叫びに勇気を得た城兵は小さな砦を守りぬくのである。
 やがて徳川・織田の連合軍が進駐してくると、城を囲んでいた武田軍はそちらに対応するべく兵を移動させていく。目の前の山から旗棹が西へ動くのを見て城兵は歓喜したに違いない。勝ったのである。
 城跡でそんな妄想に耽っていた。あー楽しかった。