社会の溶解(2)

(上から読んでね)
「それは差別につながる」という人がいるかもしれない。しかし、その差別こそが犯罪抑止力になるのではないだろうか。
人は元来強くはない。生き物としても弱い部類に入るだろう。だからこそ社会性を身につけて支えあって生きてゆかねばならない。
「犯罪を犯すと身の置き所がなくなりますよ、肩身が狭くなって差別されますよ、そうなったら嫌ですね。だから悪いことをするのは止めましょう」ということなのである。
 社会を考えるとき、脛に傷をもつ者が少しばかり肩身の狭い思いをする社会のほうが真っ当な生活をしている人々には居心地のいい社会ではないだろうか。
 かつて高倉健が演じた前科者は、いつも世間に対して遠慮しながら生きていた。「お天道様に顔向けができない」「表街道を歩けない」といった謙虚さがあった。だが今はどうだ。かつてなんの罪もない少女を監禁しなぶり殺しにした男は、その前科をあろうことか恐喝の材料に使っていた。そんな現実が許されている。それはその男が人権という名の非常識に守られているからにほかならない。
 子どもたちを守るために、真っ当に生きている人たちが安全に暮らすために、悪いやつらには不自由な社会をつくらなければいけないよね。
 そういった意味では江戸幕府の採用していた前科者に印をつける入墨の刑というのは優れたトリアージだったのかもしれない。
 司馬遼太郎は言う。
「固有の日本人がしっかりしていないと、泥沼になる。炉心になる精神がしっかりしていないと、溶けてしまう。いま日本はだらしない。これは溶けます。」
 冒頭の偽善者たちが20世紀の後半を費やし壊してきた日本人の精神をそろそろ建て直さなければいけない。この仕事は耐震偽装マンションの建て替えよりも遥かに手間と時間がかかる。