顕如

 安城市野寺町に本證寺(ほんしょうじ)という寺がある。この寺、岡崎の上宮寺(じょうぐうじ)、勝鬘寺(しょうまんじ)とともに三河三か寺といわれ、三河一向宗の拠点であった。永禄年間(1563〜64)に一向一揆を起こし、領主の松平家康と死闘を繰り広げたことは地元ではけっこう有名な話である。
 この本證寺に一通の書状が伝わっている。封の上書きには「本證寺御房 顕如」(ほんしょうじごぼう けんにょ)とある。内容は、織田信長本願寺攻めが始まり、籠城側の本願寺教団が戦闘への参加と援助を門徒衆に求めていた。もちろん三河本願寺勢力の拠点である本證寺も多額の志納金を本山に送っており、それに対する本願寺11世門跡の顕如上人の返礼がこの書状である。
 ちょっと読んでみよう。
「誠孟陽之慶悦 重畳之不可有盡 期候殊五十疋到・・・」ううう、読めない!
 要するにだ、正月の時候の挨拶と、「志納金を送ってきてくれてありがとうね」ということが書いてある。
 このように戦国期、とくに本山が信長との合戦を繰り広げているころの本願寺三河門徒の紐帯はかなり強い。
 ちょうどこのころ前述した岡崎の上宮寺に豪傑坊主が登場する。第三十四代勝祐(しょうゆう)とその息の信祐(しんゆう)である。この二人、三河一向一揆を最前線で戦い、敗北を喫するや尾張国に逃れ、その後、長島一向一揆に参戦し、信長によって平定されると両人とも苅安賀(一宮市)でさっぱりと切腹をして果ててしまう。この時期の沸騰する本願寺派僧侶を象徴するような「戦う坊さん」である。
天正十年に書かれた勝祐の肖像が上宮寺に伝わっている。絵を見る限りなかなか性根の座った面構えで、確かに鎧兜を付ければいい武者振りであったろう。この「勝祐像」も上宮寺の貢献に対して、本願寺顕如が下付したものの一つである。
 門徒からの支援で必死に信長と対抗した顕如だったが、天正8年についに敗北し石山本願寺を追われた。その後、顕如は各地を転々としながら再興を図るのだが、結局、文禄元年に京都堀川に本願寺を建立するまでに12年を要してしまう。再興の目処をつけたのにほっとしたのか同年11月24日、突然の死を迎えている。享年50歳。