郷土愛

 司馬遼太郎は『この国のかたち』の中で言っている。
《人間というのは、よほどな人でないかぎり、自分の村や生国(こんにちでいえば母校やひいき球団もこれにはいる)に、自己愛の拡大されたものとしての愛を持っている。社会が広域化するにつれて、この土俗的な感情は、軽度の場合はユーモアになる。しかし重度の場合は血なまぐさくて、みぐるしい。ついでながら、単なるナショナリズムは愛国という高度の倫理とは別のものである。》
 なるほど、そういうものか。ということはワシャは「よほどな人」ということだな。
 ワシャは自分の生まれた町に愛着を持っていない。母校もいくつかあるけれども、どれ一つとして愛着のある学校はない。もちろんその学校で過ごした「時間」には涙が出るほどの愛惜の念を持っているが、学校というハードにはなんの感慨もない。もちろんワシャが通っていた頃からは随分と時が流れ、建物も校庭もみなさまがわりしているから、愛着を持ちたくったって持ちようがないわさ。また郷土の球団にも愛着はない、というより野球そのものにさして興味がない。
 ワシャの場合、自己愛が自分の半径3メートルくらいから外へ出ていかないようだ。これって病気かもしれない。
 でもこれが極度に広域になると話が違ってくる。「日本」というものである。ワシャは日本の風土が好きだし、日本の歴史が好きだし、日本の普通の人々が好きだから、ああ、やっぱり「よほどな人」ではなかった。司馬さんの言説を拝借をすれば「日本はたとえばブータンポーランドアイルランドなどとくらべて特殊な国であるとは思わないが、ただキリスト教イスラム教、あるいは儒教の国々よりは、多少、言葉を多くして説明の要る国だ」そんなちょっと面倒くさい国だから好きだ。だから大上段に構えるのではなく、この国のよいところをささやかに守りたいと思っている。
 風呂場で司馬遼太郎を読んでいて、そんなことを取りとめもなく考えていたのだった。