出会い(1)

 司馬遼太郎記念館会誌の「遼」に武田鉄矢の講演録が載っている。武田鉄矢は18歳の時に「竜馬がゆく」と出会い、竜馬と自分を重ね合わせ、竜馬の行き方を模倣することにより、その後の一風変わったしかし面白い人生を送ることになったのだそうだ。この講演を聞く限り、武田は司馬遼太郎といいタイミングでいい出会い方をした。
 ワシャは小学校6年の時だった。その頃はアメリカ産のスペースオペラに凝っており、「E・R・バローズ」や「E・E・スミス」なんかを好んで読んでいた。このため駅前の書店に日々出没しては文庫コーナーを徘徊していた。
 ある日のこと、多分、角川文庫のあたりだったと思うが、そこで奇妙なタイトルの文庫を見つけた。「尻啖え孫市」である。題に引かれてその少し厚めの文庫本を手にした。カバー装画は風間完のちょっととぼけた絵だ。
「おもしろそうだ」と少年は思った。でも値段もけっこう張ったし、読みでがありそうなので躊躇し、また棚に戻してしまった。司馬遼太郎、12歳の小僧には声を掛けてくれなかったのである。
 その後、ワシャは吉川英治山岡荘八にはまった。なぜかといえば父親の蔵書にそれら一世代前の作家の全集があったからである。そして残念ながら司馬遼太郎は一冊もなかった。軍国少年で精神論を得意とする父親には、大阪商人の開明さを持つ司馬遼太郎の文章が合わなかったのかもしれない。
 次に司馬遼太郎に触れるのは大学のときである。「坂の上の雲」だった。日露戦争に興味がわいて、そのことが詳しく書いてあると聞き、読み始めたのだが、なにせ遊びたいさかりだったし、とにかく小説のボリュームがありすぎて途中で挫折をしてしまった。怠け者の学生に司馬遼太郎は再び背を向けた。
 3度目は社会人になってからだ。上司に読書家のKさんが異動してきた。仕事の合間にいろいろな読書論を交わすようになり、自分の読書量の足りなさを痛感した。その時に出たのが司馬遼太郎の話だった。Kさんは「司馬遼太郎はいいよ」と言いながら「しかし彼の作品を全部は読んでいない」と付け加えた。単純バカのワシャは「これだ!」と思った。総読書量で勝てないから、司馬遼太郎という分野で追い越そうと決心し、その日から司馬に没頭した。そしてはまった。武田鉄矢のように適齢期ではなく遅れ馳せにはしかにかかったものだから精神に重篤な影響を受けてしまった。まことに出会いというものは難しく大切なものだと痛感している。
(「出会い(2)」に続く)