関ヶ原 その1

 慶長5年9月15日、関ヶ原には小雨が降っている。この日付は旧暦のものであるので、今の暦で言えば10月の下旬にあたるからあるいは氷雨だったかもしれない。
 この戦、あらためて言うまでもないが、徳川家康と豊臣官僚派との政権争いである。秀吉亡きあと台頭する家康に、官僚派の俊英石田三成が危機感を募らせ家康の包囲網を作ろうとするのだが、家康もさるもの引っかくものだった。三成のそういう動きは端から見通していて、三成のスケールを超えた多数派工作を行っていた。
 そういった意味では、家康VS豊臣官僚派の政権奪取戦は2年前の秀吉の死から始まっており、関ヶ原合戦そのものは一連のロングイベントの最終セレモニーに過ぎなかったのかもしれない。
 それにしても双方6000人の戦死者を出すという大戦(おおいくさ)は夜明けから夕方まで掛かっている。このときの様子を改正三河風土記では次のように書いている。
「さばかり広き青野が原も、双方二十万にあまる敵味方入乱れ、たたかひの鯨波(とき)の声太鼓矢叫(やたけ)びの声、山川を振動して、上は梵天までも震い、下は堅牢地神も驚給ふかと夥し。諸手入乱れての大合戦、家々の旗馬印は伊吹おろしに吹きたてて、射落とされても其矢を抜暇なく、組討しても救う事を得ず、子は親を助る事叶はず、郎党は主に離れ、汗馬馳違ひ白刃の打あふ音・・・」
 う〜む、関ヶ原には20万に及ぶ軍勢がひしめき、鯨波の声や矢叫びの声が轟いていたんだね。諸軍入り乱れて阿鼻叫喚の様相を呈していたことがリアルに書かれている。
 この合戦以降、家康の権力はそれ以前とは比べものにならないほど大きくなる。それまでは諸派のなかで多数派工作をしなければならなかったので腰を低くせざるをえなかったのが、なんといっても抵抗勢力の石田党が壊滅してしまった。今や天下に号するものは己しかいないのである。家康を選んで持ち上げたはずの福島正則加藤清正も戦に勝ってはみたものの、同輩から家来の座に蹴落とされてしまった。そんなバカなと唇を噛んでも時はすでに遅かった。天下は家康とその郎党たちの手にしっかりと握られていたのである。
(「関ヶ原 その2」に続く)