信長、秀吉、家康

 組織の中で、上が下をつぶすのは簡単である。とくに上が殺生与奪の権を持っていればあっけないほどだろう。
 例えば織田信長の場合。部下の明智光秀は他の武将の前で面罵されることが度々あった。また客の供応の仕事を全否定されてもいる。真綿で包むようにして育ててきた領国を取り上げられ、毛利の最前線に移される。ここまでやられて本能寺の変を起こさぬわけがない。
 秀吉にもあった。甥で部下の秀次である。秀吉には後継者がいなかった。ゆえに甥を持ってきて関白に据えた。元が尾張の百姓である。それが叔父の出世とともに世に出る。好むも好まざるもなく戦国の武家社会に組み込まれて、叔父の理由によって上へ上へと位を上げていく。あるとき叔父の事情が変わった。後継者ができたのだ。後継者さえできれば、甥の関白など目障り以外のなにものでもない。あらぬ謀反の疑いをかけられ、伏見城の秀吉のところへは出入り禁止となる。そして高野山へと追っ払っらわれて、秀次切腹。一族郎党を三条河原で処刑する。また関係者も配流などの憂き目にあった。しかし、話はそんなに単純ではない。秀吉は豊臣政権を強い中央集権型にしていこうと考えている。それに対して秀次は連合政権的な色合いを出し始めた。ここが真の理由だと思っている。残念がら、秀吉の政策にそって動いた豊臣家はその後20年で滅亡する。
 家康である。家康は人が悪すぎて、例示の枚挙にいとまがない。それが後世の家康の悪評判を醸成していることは間違いない。だが、そのことが閉鎖的、内向的な徳川政権を保たせた要因であることも事実で、260年後の薩摩・長州の反作用にもつながっている。