愚者 その2

 さて大村益次郎以降のことである。明治陸軍の父である大村は海江田に葬られた。その後、長州の山県有朋が台頭してくる。この男も今は亡き俊英に混じって松下村塾に遊びに行っていた程度のことを、「吉田松陰の薫陶を受けた」と喧伝し明治政府の中でのしあがってゆく。あわせて長州の俊英たちがこぞって幕末の業火の中で倒れていったのも愚物に幸いした。
 山県は長命し大正10年まで生きる。総理大臣にまで登り詰める愚者は、陸軍を大村の理想とはかけ離れた「軍閥」というまことに愚かしい代物に作り変えてしまった。
 山県の死を知った東洋経済新報社石橋湛山(後に総理大臣)は「死もまた社会奉仕」と辛らつな論評を出した。
 江戸の思想家、藤田東湖は言う。
「小人ほど才芸があって便利なものである。これは用いなければならない。しかしながら長官に据え、重職を授けるとかならず邦家を覆す」
 現在の日本国に禍根があるとするなら、それはこの両者に端を発している可能性が高い。