帷幄上奏(続き)

 昨日、中日劇場で夜の部「新・八犬伝」を楽しんできた。その話をしたいのだが、「帷幄上奏」が積み残されたままなので、まずはそちらを片付けておきたい。

 河原敏明『良子皇太后(ながここうたいごう)』(文藝春秋)の中に「宮中某重大事件」という章がある。これは近現代史の中では有名な話なのだが、昭和天皇が皇太子であった頃、そのお妃に内定していた良子女王に対し、長州閥がこれを辞退させるべく妨害工作をしたというまったく上を畏れぬ事件のことである。ここで、主要な役を演じるのが、山県有朋という爺さんである。吉田松陰の門前にいたとかいなかったとか、そのあたりは定かではないが、その縁に連なって明治期に伸してきた老軍人である。
 ワシャは伊藤博文井上馨などには比較的好意的なのだが、どうにもこの山県だけは歯牙に合わない。その嫌う要因の最大のものが、この「宮中某重大事件」にあることは確かである。
 とにかく、皇太子のお妃をえらぶという私的なこと(実際には公的なことなのだが)に関しても、逐一有力者どもが口を挟んでいるということなのだ。このこと一つをとっても戦前の日本が天皇の独裁下にあったというのはまったくのでたらめなのである。おそらく何百、何千という案件の中で天皇が直接断を下したのは2つか3つである。そんなものは独裁もなんでもない。
 さて、帷幄上奏のことである。良し悪しはこの際措いておく。明治憲法下、軍令事項(統帥事項)については、統帥機関の長あるいは陸・海軍大臣が、国務大臣の輔弼を経ずに大元帥天皇)に上奏できるとしていた。先の戦争では、これが悪く出た。このことについては、司馬遼太郎が『この国のかたち』の中で詳しく述べているのでここでは触れない。しかし、そもそも明治憲法下で統帥権を担保したのは、緊急時、突発的な紛争などが発生した際に、閣議や協議などを重ねていると対応を誤るので、即断即決の形態を準備していたものである。運用さえ誤らなければ、まともな機能だったのだ。
 それを常時に持ち込み、肥大化させ、非常時に誤用した軍官僚の浅はかさはいかばかりであろうか。秀才軍人が悲劇を拡大した事実は消すことはできない。繰り返すが、当初の思想はいたって健全なものだった。
 これを国家ではなく、組織に置き換えたい。会社と言ったって巨大な企業や官公庁から中小零細まで種々雑多にある。これらどの組織でもトップがいてブレーンがその周辺を固め、いろいろな経営判断をし、実働部隊を動かして、目的を達成していく。それはNHKやJRであろうと街の鉄工所であろうと同じだと思う。
 そこで帷幄上奏である。組織が小ぶりになればなるほど、この風通しの良さは大切だと思う。営業課長がひらめいたことを直接社長に相談する。これが帷幄上奏と言えば言えるのだが、課長が次長に相談し、次長は部長に、部長は本部長に、本部長が常務・専務に、その後ようやく副社長に辿り着き、そこから社長に相談していたら、ことは済んでしまっている。組織が形式主義に陥り、ハードルが増えれば増えるほど、動きは鈍くなる。その上にフットワークの悪いブレーンが並ぶと、組織は動かなくなる。
 時と場合によっては帷幄上奏が必要だと思うがいかがかな。