お江戸は遠くなりにけり

「海沿いの茶店へ入り、麦湯で喉をうるおす。道をへだてた向こう側には大規模な牛小屋が並び、道路には、ひっきりなしに牛車が往来している。茶店のおばさんの話では、ここだけでも千頭はいるという。牛にも日除けのござを差しかけている。背後には沖の白帆。古川柳に―海辺だけ牛にまで帆を掛けて出る。」
 安永8年(1779)7月26日江戸は牛町(高輪2丁目)の風景を描写した文章である。このあたり、いわゆる「高輪十八丁」は東海道筋にあたり荷物運搬の牛車が許されていた。このために沿道には車庫を兼ねた牛小屋が立ち並んでいる。そんな様子を唯一江戸時代に時間旅行のできる杉浦日向子がさらりと書いている。
 杉浦が牛町に赴いた日は青天だった。おそらく京橋に住していた杉浦は東海道を南へ、新両替町尾張丁、出雲丁と歩き、新橋を渡る。この辺りからは一筋入れば武家屋敷が連なっているんだよね。脇坂中務、松平肥後守の広大な屋敷を左に見て、芝増上寺を過ぎ金杉橋を渡ると左手に江戸湾が見えてくる。湾をゆく白帆が何本も見えたに違いない。ここから十町(1町=109メートル)も行けば牛町に差しかかる。この辺りで杉浦はスケッチブックを開いたんだろうね。米俵を積んで悠々と通ってゆく牛車を書きとめたものが「江戸アルキ帖」(新潮文庫)の中にある。
 ワシャも江戸が好きだ。江戸に関する史料は山ほどある。その中に杉浦日向子さんの著書も12冊ほどあった。どれもが江戸への濃やかな視点で描かれ、ほんのりと江戸情緒を感じさせてくれる名著である。
 中でも「百物語(壱)」、「百物語(弐)」は気に入っている。江戸の優しい怪異に出会えますぞ。
 杉浦日向子さん、享年46歳、ご冥福を祈る。

(下に続くけど読まなくてもいいですぞ)