来嶋又兵衛

 幕末、長州藩に来嶋又兵衛という侍がいる。京都東山霊山にある維新の志士顕彰墓に高杉晋作久坂玄瑞らと並んではいるが、知名度からいってこの二人には大きく水を開けられている。
 何故か。理由として考えられるのは享年である。高杉29歳、久坂25歳に対して又兵衛は48歳とかなりいい年齢だ。翁とも呼ばれているから爺の範疇といってもいい。ドラマ化されれば高杉がオダギリジョー、久坂が要潤あたりで、来嶋又兵衛は榎本明くらいの役者が演じることになるだろう。そりゃぁ人気はでませんよ。
 でもね、このオヤジ、維新の志士の中でも颯爽としているのである。本来ならこの年齢である。どちらかといえば保守派に属し、攘夷派の高杉や久坂に対して諌める立場の役まわりだと思うのだが、このオッサンそうじゃなかった。血気に逸ること人語におちない。高杉や久坂より動きが速く先頭に立って走っていってしまうのである。
 司馬遼太郎もこの人物には好意的で、妻とのやりとりをこう書いている。
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 この藩公にさえ激論を吹っかける男も、妻女とだけは衝突を避けて逃げまわっていた。
 こんどの決死の進発をするときも、
「おたけ、これっきりだ」
 掌をあわせるようにして頼んだ。これっきりで東奔西走はやめる、というのである。
「本当でありまするな」
 おたけは、笑顔もみせずに念を押した。
「本当だ。落ちつく」
「きっと?」
 妻女が念をおすまでもなく、事実そのとおりになった。来嶋又兵衛は軍をひきいて京に討ち入り、蛤御門に乱入し、馬上敵弾を受けて討死してしまったからである。
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 元治元年7月19日早朝、1600の長州軍は奮戦したが8万の京都守備隊には衆寡敵せず、戦いは1日で決着し長州軍は壊滅する。この戦での戦死者は長州側で300余名を数え、幕府側で100余名を数えている。双方の戦死者とも靖国に祭られて神となった。当然、この中に来嶋又兵衛もあり、維新後、正四位を贈られている。
 命を張って好きなことをやり遂げたこのオッサン、満足のゆく人生だったに違いない。でも、家族には随分と迷惑な親父だったろうね。