刈谷の殿様

 刈谷藩の城主に松平定政という人物がいる。桑名藩14万石の藩主松平定勝の六男として慶長15年(1610)山城国伏見に生まれた。戦国は慶長20年の大阪の陣をもって終焉するので、当然のことながら5歳の定政が参戦できるはずもなく、戦争(戦国)を知らない世代といっていい。
 この御仁、祖母が家康の生母於大であるので家康とは叔父甥となる。このため将軍家光に仕えると同時に5000石を与えられている。その後も順調に加増され慶安2年(1649)には所領2万石となり刈谷の城主となりましたとさ。めでたしめでたし、とはならなかった。
 松平定政、その2年後の今日、上野東叡山別当最教院で剃髪し、2万石をあっさりと幕府に還付し(2万石ですぞ)、己は息子とともに江戸市中を托鉢をして歩いたという。その理由がふるっている。
「松平伊豆守(知恵伊豆)の重箱の隅をつつくような浪人対策が不愉快である。2万石をお返しするのでそれを浪人政策にお使いいただきたい」
 この潔さに幕閣は面食らった。そりゃそうでしょ、どの大名も1石でも余分に所領が欲しいので汲々としているのに、政策担当者にお追従をするどころか「バカ」呼ばわりして自分の俸給を叩き返したんだからさ、いやはや凄い殿様がいたもんだ。
 知恵伊豆は姑息な知恵を働かせて、「定政は全く狂気の所意と定められしぞ」と危地害扱いして身柄を伊予松山藩に預けてしまった。
 この半年後、由比正雪の乱が起きるのだが、それも幕府が定政の意見を反映しなかったことによる。
 道路関係4公団民営化推進委員会で猪瀬氏がバカどもを相手に孤軍奮闘している。内田道雄副総裁は「名誉が毀損された。だから名誉が快復されるまでは委員会に出ないもん」とガキみたいなことを言っている。
 これが江戸の頃からの官僚たちの常套手段なのである。
「意見書に触れたくないから狂っていることにしよう」
「まともに議論をしたくないから名誉毀損にしよう」
 嗚呼、姑息なり。
 350年経っても何も変わっていない。だから変えようとしている猪瀬氏を応援しようっと。