安全で安心な社会はどこにいったのか

 筍子に「人之性悪、其善者偽也・・・」で始まる一節がある。要するに「人間はもともとバカのである。善なる性質は後天的に努力して身につけるものである」ということであり、「人間は天性がバカから、指導者と法で教化しなければ正しくならないし、礼・義がなければ社会秩序を守らない」ということなのである。
 現在の日本の状況を見ると、この筍子の一節が説得力を帯びてくる。たがをはめてもともとバカな性格を馴致しなければ、パチンコ屋の帰りに殺人事件を起こしたり、入院中に相部屋の人を刺殺したり、ガキが脚本まで作って「振り込め詐欺」で老人から何千万円も騙し取り豪遊していたり(クソガキのくせをしてあぶく銭を使う味を覚えてしまっては将来犯罪者への道をまっしぐらだね)するわけだね。欲望のまま、性情のおもむくままに好き勝手なことをして世間を漂うようにして生き、他者と接触をすると突然きれて害を及ぼす。それじゃあまるで毒くらげと一緒じゃないか。
 このぐにゃぐにゃのくらげどもを枠にはめて形を作らせるのは並大抵のことではない。教育でも何十年もの時間が必要だろう。何十年ものかけて腐らせてきたのだから最低でもそのくらいの時はいる。じゃぁその間、善良なる人々は手をこまねいて殺され続けろってか?即効できく特効薬はないのか?
 実はないこともない。「強力な指導力をもった指導者」が登場すれば性悪な毒くらげはひとまず物陰に隠れておとなしくなる。おとなしくしている間に教育という気の長いリハビリを施して毒くらげを生み出す土壌自体を改良していくのである。
善良なる人々に権利を与え、性悪なバカからは権利を取り上げる。だいたいやね、善なるものも悪まみれなバカも平等だというのがおかしい。犯罪者に人権などというものがあること自体疑問だ。
そうでしょ、パチンコに負けたからって、その腹いせに見ず知らずの婦人をナイフで刺し殺す生き物のどこに人間性があるんだろうか。自分が放埓な生活を続けてきたことで内臓を患って死ぬかもしれないので、まわりの連中も巻き添えにしてやろうと看護婦や患者を刺し殺すバカに人間性を認めなければいけないのだろうか。性悪なバカには更正の道が残され、殺された人には「殺され損だったね」の一言かい!責任者出てこ〜い!(人生航路風に)