型あればこその個性かな その1

 朝日新聞に、学校教育に関するシンポジウム「義務教育 どう変える ― 地方分権の流れの中で」のディスカッションの一部始終が掲載されていた。相変わらず教育についての議論は喧しい。
 かつて、といってもつい2〜3年前のことだが、「ゆとり教育」などというばかげたことをほざく連中がいた。「画一的な教育は、子どもたちの没個性化を助長し、小学校で3割、中学校で5割、高校で7割の生徒が授業についていけない」だから、「ゆとり教育」が必要なのだ、という論理なのである。
 ばかなこといっちゃぁいけない。子どもたちに個性など取敢えずはいらない。子どもとたちは皆が皆、司馬遼太郎ではないし、岡本太郎ではないのだ。99.9%普通の大人として社会に出るしかなく、そこには個性などというものをもっとも嫌う会社とか役所という村のなかで生きていかなければならないのである。
 第一、小学校で落ちこぼれる3割の子どもは、本当に努力をしているのか。何事も集中してある程度の時間数をかけなければものにはならないのだ。だらしのない親とともに駄菓子を頬張りながらテレビを見ているようでは必然的に落ちこぼれる。本当に文部科学省が落ちこぼれをつくりたくなかったら積めこみ教育しかない。出きるまで反復して何度も何度も同じ問題を解かせる学習法もある。子どもたちを本当に救いたければそうするしかない。
 高校の7割だって、そりゃそうでしょ。猫も杓子も高校へ進学するっていうんだから・・・うちの近所の女の子が今年私立高校に入学したが、その子は勉強が嫌いで嫌いで仕方ないと言っていたんだ。だから成績も悪かった。なのに高校へ進学するというから、「なんで?」と訊けば、「友達もいくから・・・」と答えた。そうなんだよね、今時の高校なんて一部の進学校を除けば、モラトリアムで遊びにゆくところなんだよね。だったら7割くらいは授業についていけないのは当たり前だろう。
(「型あればこその個性かな その2」に続く)