鬼畜は鬼畜、巷間に鬼畜はあふれている

 自分が高校生のころと40を過ぎた現在となにか変化しているかと自問してみたが、精神的に大して成長していないと感じることのほうが多い。それに若かりしころの自分は、自身の中でけっこうかわいいわけで、ついつい当時の非行をも美化し肯定してしまうことすらある。
 昭和63年、わたしが記憶しているなかでも最もおぞましい事件が起きた。東京都足立区の鬼畜の家で繰り広げられた女子高生の虐待と虐殺とその挙句のコンクリート詰め死体遺棄事件である。この新聞記事を読んだあと、何日も眉間のあたりに不快感が残った。それは事件の残虐さにやるせなかったということもあるのだが、それよりも増してこの虐殺に加わった少年たちの気味の悪い長虫のような印象に吐き気を覚えたのである。他の殺人事件と比較しても、この事件は性悪で救いようのないものだった。
 この7月3日に埼玉県八潮市の33歳の男が逮捕監禁致傷の容疑で捕まった。この男は虐待虐殺コンクリート詰め殺人事件の主犯格の男だった。この男、自分はあの事件で罪の問われてもなにも反省していないのだ、ということを証明してしまった。この男は当時、A、B、C・・・と呼称されていた少年のBなのだが、裁判では殺人ではなく傷害致死を主張していた。わいせつ誘拐、監禁、強姦、殺人、死体遺棄などと罪状が並んでいて、なにが傷害致死だ。罪名はそんな甘いものではない。そんなんじゃないんだ。「虐殺」なんだよ、この事件は・・・
 人間の性は本来悪である。そして三つ子の魂百までである。もうそろそろ少年を性善説で考えるのは止めよう。そして何人殺したから「懲役」で何人殺したから「死刑」という杓子定規な考え方ではなく、被害者がどれほどの絶望感を味わったかで量刑を決めるほうが妥当ではないだろうか。
 かつて少年だったA、B、C・・・、20年という歳月で人変わりすることができたのだろうか。少なくともBは変わっていなかったし、よほどの聖人君子でもない限り体力が落ちるくらいで、大して進歩なんてしないよ。人間はそれほど器用には出来ちゃぁいないし、利口でもない。
 鬼畜のような人間が増殖する中で、法だけが取り残されているような思いがする。人を矯めるにはある程度のフレームは必要なのである、ということにこの国の為政者たちはなぜ気がつかないのだろうか。