長篠合戦

 天正3年(1575)の今日、愛知県鳳来町設楽原で特異ないくさがあった。織田信長軍が圧倒的な火器(火縄銃)をもって、武田騎馬隊を完膚なきまでに破ったといわれている「長篠の戦い」である。
 この戦いは、近世を象徴する織田鉄砲隊が、中世のシンボルである武田騎馬隊を圧倒した戦国時代のターニングポイントとして位置付けされている。かつて習った「日本史」の教科書のカラー口絵にも「長篠合戦図屏風(部分)」が載っている。連吾川をはさんで左手に織田・徳川軍が柵を設置して鉄砲を構え、右手からは武田軍が総攻撃を仕掛けているといった場面である。解説には、「ほろびゆくもの、さかえゆくものの明暗をもっともよく示すもの」と書いてあり、この筆者がオーソドックスな史観の持ち主であることが理解できる。
 まず、注意したいのは連吾川をはさんで行われた決戦は、厳密にいえば「長篠の戦い」ではなかった。長篠の戦いは図屏風の右端に描かれている長篠城攻防戦のことであり、連吾川周辺での戦は「設楽原の戦い」と呼ばなければならない。
 また織田の圧倒的な鉄砲隊が武田騎馬隊を破ったとしているけれども、地形を見る限り、設楽原とはいうものの実に狭隘な地形で、極言すれば谷でありこんなところを騎馬隊が怒涛のごとく馬防柵めがけて疾駆したとは考えられない。
 それに戦国期の馬が、現在、我々がイメージするような大型のサラブレッドではなく、ずいぶんと小型だったようで、実際に武田氏居館跡から発掘された馬骨を見ても体高1.2mというからポニーに近いような馬だった。いくらなんでもこの馬に鎧武者が跨って凹凸の激しい連吾の谷を疾駆などはできまい。ここらあたりに歴史の実しやかな嘘がありそうである。
 丁度、季節は長篠の合戦の頃にさしかかっている。夜、雨が降って明け方に止むというような予報が出れば、まさに合戦の朝と同じ気象条件となる。設楽の原に出かけて、耳を澄ませば、うまくすれば武田軍突撃の陣貝の音を耳にすることができるかもしれない。