引き続き長篠の合戦の話

 甲斐の武田と徳川家康東三河から遠州にかけて鍔迫り合いをしていた。その中で長篠城三河遠江信濃、美濃との交通の要衝であり、戦略的にも重要な拠点であった。このため家康は奥平貞昌を城将として置き、北からの脅威に備えさせた。
 天正3年4月、武田勝頼は長篠攻めの軍令を発している。これを受けて戦国期最強の軍団が、伊那街道に軍を進めた。そして5月9日には、長篠城周辺の野山に1万5千余の軍陣を敷き終え、無数の幟を長篠城の周りに出現せしめた。
 長篠という小城に篭る兵、奥平貞昌以下わずか500、このときの城兵の心細さはいかばかりであろうか。
 ここで長篠城の地形を簡単に示しておく。
 城は寒狭川と宇連川の合流点の崖上に建てられていた。このため東、南面は天然の要害となっており、城は北と西にむかって防御線を敷けば難攻の砦となった。
 5月11日、戦いの火蓋が切って落とされた。武田軍は城の東側の崖下から猛攻撃を開始する。もちろん城兵を分散させるために各方面からも陽動戦を仕掛けたに違いない。奥平家の家史である「中津藩史」にはこう書かれている。
「筏を度合に泛べ竹盾を翳し懸崖を攀じて野牛門に迫る。城兵撃ちて悉く之を殪す。敵尚ほ死屍を踏んで続登す。一族、矢石を犯して奮戦し攻城具を奪ひ竹盾を火く。敵死傷三百余人を遺棄し北ぐ」
甲州兵は、寒狭、宇連両川を筏で押し渡り、竹の盾(火縄銃には竹を束にしたものが有効だった)をかざして崖を登って野牛門攻撃をしたが、城兵はこれを火縄銃で撃って倒した。それでも甲州兵は累々たる屍を踏んでなおも前進してくる。奥平一族は矢を放ち、石を投げて奮戦し竹の盾を焼き勝利を収めた。甲州兵は死傷者300人余を置き去りにして敗走した」ということである。なかなかにして鬼気迫る描写ではないか。
 この後も奥平勢は、怒涛のような武田の攻撃をしのぐのだが、平らかな地形の北西方向は守備的に脆弱で、13日には北側の廓を落とされている。また崖側からは、城の土台破壊工作も行われ、城兵は精神的にも肉体的にも休まるときがなかったに違いない。それでも奥平貞昌らは21日の決戦の日まで、10日あまりを戦いぬいたのである。これはひとえに城将の貞昌のポジティブな性格に寄るところが大きい。
 この大博打に勝った奥平家は、10万石の大名として明治維新まで生き残り、子孫は明治政府で伯爵となっている。