もうひとつおまけに地震の話

 元暦(げんりゃく)2年のことというから、壇ノ浦で平家が滅亡した年のことになる。今から800年ほど昔、京都は伏見の庵で鴨長明が大地震に遭遇している。
「おびただしく、おおなゐふる事、侍りき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて、河を埋み、海は傾きて、陸地を浸せり。土裂けて、観ず湧き出で、巌割れて、谷に転び入る」
 鴨記者の報告によれば、京都近郊は壊滅的な打撃を受け、すべての建物が崩壊しているとのことだ。平家の滅亡が巷間の噂として広まっていた時期だけに、平家の祟りではないかと、民草を恐怖させたに違いない。
 このころ地震のことを「なゐふる」と言った。「な」は「地」のことで「ゐ」は「居」で「居地」、「ふる」は「震える」で「大地が震える」ということらしい。
 宝永4年(1707)4月に巨大地震が関東から九州にかけて発生した。この地震の影響で富士山が爆発したというから尋常ではない。東海の渥美半島では、南方で大いに鳴動し、大津波があり、被災地は34箇所にも及び、またこの地震で大きな島が出現したと、古記録に書かれている。
 徳川実記には「四日大地震あり」「五日この夕大地震あり」「六日駿府城内外地震により破壊せるよし注進ある」「七日伊豆下田湊高潮で各所破損、甲州身延では富士川が崩れ、遠州荒井の海口も損じ、三州では城々宿々この災禍にかからざるはなし、大坂では民屋10,600が崩壊し、3,020人が死亡した」とあわただしく書き込まれている。
 科学はこの二つの時代よりもはるかに進んでいる。しかし予知と言うことに関していえば、どれほどの進歩があっただろうか。高速鉄道や高層ビルなどを考えれば、科学が進んだ分だけ危険性が増しているともいえる。
 それでも鹿島大明神に手を合わせ、あとは諦めるしかなかった頃とは違って、今は災害に対応する術がいくつもある。予知はできなくとも被害を最小限にする方法は画期的に増えている。なまず野郎なんかに負けるのはいやだ!
 ということで、ゴールデンウイークに天井まで積まれた本の山を整理することにしよう。