死について

 江戸中期に活躍した禅僧に白隠慧鶴(はくいんえかく)という人物がいる。近世臨済宗の中興の祖といわれる名僧で、その人が「死」について記述した文章がある。
「誰でも往々に、生あることは知っていても、死があることを知らずに、有為名利のことばかりしていて、死ぬときに三塗の苦しみを受けることになる」
「生きながら死して働く人こそは、これぞまことの仏なり」
「志あらんずる武士は、毎朝胸の上に死の字を二三十ずつ書すべし」
「死字に参究しなければ、一大事があって、身命を顧みず仕事を果たすべき時になっても、何のはたらきもできない。大いに驚きあわててへまをやり、臆病者のふるまいを仕出かし、ジャーナリストの名を汚し、これまでの信用を失い、親類縁者の顔をつぶすことになる。これすべてみな、大事の至るまでに死生をはっきりと明らめることができなかった大不覚者のなれの果てである」
 白隠禅師が「ジャーナリスト」と言ったかどうかは定かではないが、少なくとも惰性で生きている私には、ズシンと響く言葉だった。
 禅師の言うとおり、朝、己が胸上に「死」の字を書いている。そうすると妙なもので落ち着いてくるから不思議だ。
 死はつねに身近にある。生と表裏を成すものである。忌避せずに見つめなおすことが大切なのかもしれない。
 京都文化博物館の「白隠禅師展」を観て、そんなことを思った。