ワシャは高校時代に部活でサッカーをやっていた。大学時代はスキーとウインドサーフィンに凝ったのでサッカーからは遠ざかった。就職して、たまたま会社にサッカー部があったので、先輩に勧誘されたこともあってサッカーを再開した。5年くらいブランクがあったから、感覚をもどすのに時間がかかったなぁ。でも経験者が少なかったので、すぐにレギュラーになった。その時にもらった背番号が「4」だった。ポジションはバックス、スイーパーと呼ばれるところである。
大して上手くはなかったんですよ。ただ、当たりが強く敵のフォワードが攻め込んでくると、どんな手を使っても行く手を阻み、潰す、性格的なこともあってこれが得意だった。審判の目の届かないところで、かなりラフプレーもしたので、相手のフォワードから嫌がられたものである。そこでついたあだ名が「死神」だった。背番号が「4」だったこともあってつけられたんだね。
でもね、相手にはそうだったかもしれないが、ワシャは10年くらいの選手生活でケガ一つせずに過ごすことができた。だから「4」はラッキーナンバーでこそあれ、不吉な数字ではなかった。
ネットで《病院行きバスに不吉ナンバー 「42○○」が物議》というニュースがある。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140823-00000004-kobenext-l28
「総合医療センター」に向かう乗合バスのナンバーに「42」がつけられているのが「不吉」なのだそうな。「42(しに)」番と言って昔から忌み嫌われているよねぇ。まぁ《二つのバス会社が昨年10月から自主運行する。予備車両を含めて22台あり、うち13台が同じ小型ノンステップバスで、登録時の番号が「42」で始まっていた。》って、そもそも客商売なのだから、そのあたりはバス会社が気を回さなければいけない。ずぼらというか、ずさんというか。
ただ《運行開始直後から、市役所やバスの運転手に「不吉だ」と苦情の声が相次いだ。》というが、「4」、「13」をラッキーナンバーにしているワシャからすると、「なにをつまらないことでクレームをつけているのか」とも思わざるをえない。
なぜ「死」を忌む。「死」ばかりは万人に平等に与えられたものである。それを忌避してどうなる。むしろ「死」を意識することで今を充実して生きられると思うがいかがか。
江戸の傑僧である白隠禅師はこう言う。
「志あらんずる武士は、毎朝胸上に死の字を二三十ずつ書すべし」
「特に武士たる者は、死字に参究しなければ、主君に一大事があって、身命を顧みず忠義を果たすべき時になっても、何のはたらきもできない」
今の人たちは「死」=「命を失う」ということに拘泥し過ぎているのではないか。傑出した人たちは、責任をとるのにいとも簡単に腹を切った。江戸の昔という話ではない。先の戦争でも、腹を切って責任を全うした人は少なからずいる。
「命など 軽いものよと 竜馬言い」
ということなのである。そういったことを腹に収めておけば、「4269」(死に向く)はいかにも武士らしい潔い番号ではないか。つねに死と向き合って、いかによく生きるかを考える、かくありたいと凡人ワルシャワは思うのであった。
生きとし生けるものは、一個の例外もなく死にゆく。
「門松は冥途の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」
正月を飾る門松だって、考えようによっては死への誘いを感じる人もいるのだ。つまらぬ番号合わせのクレームに貴重な時間を費やすのではなく、そこから刺激をもらって、だから自分はよく生きようと思考を変えていったほうがいい。
臨済宗の名僧松原泰道師がこんなことを書いておられる。
「人間は生きている限り死は体験できないのだ。だから人間には死を思いわずらう権利はない。人間はただ生きるしかないのだ」
もう一つおまけ。司馬竜馬がこんなことを言った。
「生きるも死ぬも、物の一表現にしかすぎぬ。いちいちかかずらわっておれるものか。人間、事を成すか成さぬかだけを考えておればよいとおれは思うようになった」
バスのナンバーなんてどうでもいいじゃないですか。そんな番号であなたの運命が左右される程度のものなら、もともと大したものではなかったということでしょう。そんなことに悩まず苦情を言わず、楽しく一所懸命に生きることが大切だ。どうせ短い人生だから(笑)。