春や春 春姫道中 春の宴(断念)

 明日、4月4日の日曜日に「春姫道中」というイベントが名古屋である。友人から誘われたので、道中行列に参加して、名古屋の街を練り歩き、その後、慰労会を兼ねて、桜でも愛でながら酒でも飲もうと思っていたのが、急に仕事が入ってしまって行かれなくなってしまった。(残念無念)
 このイベント、秋の男まつり「英傑行列」に対して、春の女まつりとして始められ、すでに10回を数えている。
 で、「春姫」とは誰ぞや、ということだが、江戸初期、大坂城落城の年に、紀州浅野家から御三家の尾張徳川家に嫁いだ姫のことであり、晩年は高原院と号した。
 イベントは、この姫の婚礼行列を再現しようという企画である。名古屋市史にも「慶長8年、義直4歳にして婚約なり、元和元年4月12日、大坂夏の陣に先立ちて、名古屋城において式を挙ぐ、諸士亦随い来る者多し」と書かれている。
 関ヶ原の合戦が、家康の圧勝に終わり、外様大名どもは己が家の安泰を図るために猫も杓子も徳川家との姻戚関係をつくろうと躍起になった。もちろん秀吉との縁の濃い浅野家にしてみれば、必死である。
 元和元年、関ヶ原から15年が過ぎ、徳川幕府は磐石となっている。名もない浅野の家を諸侯に列するまでの家に引き上げてくれた豊臣家は風前の灯であるが、背に腹は代えられない。覇王家康の息子に嫁がせるのである。浅野家とすれば、いやがうえにも盛大にせざるを得ない。13歳の可憐な主人公を戴いた、華やかな行列は名古屋城下を厳かに進んでいったことだろう。
 因みに、名古屋市史には元和元年4月12日と書かれているが、厳密にいえば元和元年に4月12日はない。元和という年号は1615年の7月13日から始まっているので、それ以前は慶長20年である。正確をきせば慶長20年4月12日ということになる。
 それよりも春姫の輿入れの4月12日である。当時は旧暦だから現在の暦とはずいぶんと違う。実際には現在の5月9日ころだった。この季節だと、行列は結構暑かったに違いない。輿のなかの姫様も蒸れていたかもしれない。それでも1ヶ月後に大坂城で焼かれながら自害していった秀頼たちのことを思えばさしたることもないか。
「春姫道中」に行かれないので、この行列に密偵を放っておいた。なぜかって?それは、この行列にいろいろな匂いがするからなんですよ。
 なにかおもしろい報告があればまた書きますね。