大人たちよ、花を愛でよ

 昨日、雪柳が咲きはじめたときいたので、近くの公園に出かけた。
 そこでキックボードで遊ぶ3人の子どもを見かけた。体格から見て小学校の低学年だろう。その中に長めの髪をところどころ金色に染めた子どもがいる。その子は薄汚れた上下のジャージを着て、古びた靴をつっかけていた。そして敵意のこもった眼差しを、私に向けている。この子以外の子どもがこざっぱりした身なりであどけない表情をしていたので、その子がなおさら際立った。
 親の責任だな、と思った。年齢からいって、その子が自分からが望んで金髪のメッシュなどにしたのではあるまい。軽薄な親が我が子をおもちゃにしているだけのことだろう。本来は子どもの清潔な服装にこそ気を配らなければいけないのだが、くだらないところばかりに積極的なのである。
 こういった子どもの母親というのは共通したパターンがある。まず教養がない。ばさばさの長い髪を茶髪に染めている。ジャージを日常着にしている。タバコを吸う。だらしがない。(あ〜ぁ、断定してしまった)
 子どもが親を選ぶことは不可能である。子どもは生まれてくる環境を選べない。たまたま愛情のこまやかな両親のもとで有り余るほどの恩恵を受けて育つ子どももいれば、精神の貧しいバカ親に小突き回されて育つ子どももいる。両者がまったく違った個性に育ってしまうのは、当然といえば当然の帰結なのである。
 子どもの幸せは貧富の問題ではない。親の精神の問題なのである。子どもにしつけることも大切だが、それ以上に親の再教育が重要だろう。
 子どもたちの未来を枯死させないためにも、バカ親を野放しにせず、一人前の権利を与えないことだ。愚者の権利は、時として「機知外に端者」となりうるので注意しなければならない。あの岸和田の鬼畜が「親権」を振りかざしていたことを忘れてはいけない。
 のどかな公園の風景の中でそんなことを思った。