鷹が肥えれば空を翔べない

 能「鷹姫」を観た。
 物語は、絶海の孤島で展開する。そこに「鷹の泉」があり、その泉をじっと見つめる老人がいる。そこに波斯国(はしこく=ペルシャ)の王子である空賦麟(くうふりん)が泉の水を求めてやってくる。水の湧くのを待つ二人の前に、泉を守護する鷹姫が現れる。空賦麟は剣を抜き立ち向かうが、鷹姫の呪いで眠らされてしまう。やがて水は湧き、鷹姫はそれを汲んで、ひとしきり舞った後に姿を消す。時は流れる。空賦麟は眠り続けていた。幽鬼となった老人の霊が、泉の水が得られない悲しさを嘆き謡うのだった。(なんのこっちゃ)
 よく寝てしまった。
 白洲正子梅若六郎のことを「伝統芸能の難しさと面白さ」という随想の中で書いている。白洲は六郎の祖父、父を師匠とするいわば六郎の姉弟子のような存在である。彼女は、六郎の新作能のついてこう言っている。
新作能が概してつまらないのは、多くの人の手を経ていないからだろう。一つ一つの能には長い歴史がある。それはあたかも苔むした石庭を見るように美しい」
 私の感想もそのあたりである。

 能にしろ歌舞伎にしろ役者は太ってはいけないと考えている。たとえば中村雁治郎(三代目)という歌舞伎役者がいるが、細かった頃の彼は、それは綺麗だった。ところが太ってしまって、遊女お初(曽根崎心中)の二重あごとでかい尻を見せられてはたまったものではない。歌右衛門玉三郎のように、常にしなやかな姿態を維持すべきではないだろうか。
 同様に、いくら能が象徴的な芸術といわれても、生霊や怨霊がでっぷりと肥えていたのでは話にならない。あまりにも現実的な二重あごの前には夢幻もふっとんでしまうのだ。21世紀になって文化のブの字も理解できないバカが増殖中である。そんな時代に、多くの能ファン、梅若六郎ファンを確保するためにも、精進しなければならない。太っているということは怠けているということと同義なのである。
 私の眠気の原因は、二日酔いのせいばかりでもないのだった。