橋掛りでの名人芸

 昨日、梅若六郎の能を観るために名古屋へ出た。途中、野暮用があって、名古屋駅に到着したのは開演の20分前だった。地下鉄で名古屋能楽堂の最寄駅までいって、そこから徒歩で行くとぎりぎりになる。能「鷹姫」はどうしても頭から観ておきたい演目なので、奮発してタクシーで行くことにした。
 駅の東口で個人タクシーの小型車に乗りこむ。
「ありがとうございます」
 ハンチングをかぶった小柄な老人運転手は愛想がいい。
名古屋能楽堂お願いします」
「はい、わかりました」
 車はスムーズに走り出し、桜通りを東に向かった。
「今日はね、能楽堂へいってくれっていうお客さんが多いんですよ」
「そうですか」
 老運転手は信号待ちの間にメモを見ている。メモにはいくつかの数字が書いてある。
「あったかくなりましたよね」
「ええ」私の返事はそっけない。
「今日は17度くらいまで温度が上がるらしいですね」
「ほお・・・」
 驚いた。温度が上がるのは、別段、驚きもしないが、老運転手の営業努力に驚かされた。メモには「17ど」と書いてあったのだ。メモは台本だった。この運転手に興味が湧いた。
「景気はどうですか?」
「あっしゃぁ景気に関係ないんですよ。個人タクシーでしょ、仕事もね、趣味でやっているようなもんでね」
「趣味で?」
「若く見えますがね、これでも年金をもらっている身なんでさぁ」
 あまり若くは見えなかったが、曖昧にうなずいておく。
「天気のいい日に、お客さんを拾って、行く先まで雑談するのが根っからあっているんでしょうね」と言って楽しそうに笑った。
 タクシーは、伏見通りで左折して国道22号を北へ走る。
「これがね、城の外堀です」
 堀を渡るとき、タクシーは少しだけ速度を落とした。
「今日は名古屋城がきれいにみえますね」
 老運転手に言われて右手を見ると、金鯱を戴いた天守閣が青天にそびえている。
 10分ほどで能楽堂正門前に着いた。車は古かったが手入れは行き届いているし、客を飽きさせない会話といい円滑な運転といい申し分なかった。料金は960円、老運転手はすばやくお釣を出して「ごゆっくり」と付け加えるのだった。「趣味」と言いきるだけのことはあって、全ての動きに余裕があった。
わずか10分の舞台だったが、名人の仕舞を観た後のような充足を感じていた。