再びは生まれ来ぬ世か冬銀河

 一昨日の読売新聞の編集手帳に出ていた句がよかった。俳人細見綾子の名句である。凍てつく冬の夜、天空を見上げれば、はっとするような銀河が広がっていたりする。ああ、あの星々もまた自分と同じように今生きているんだなぁ。でも、次の瞬間には、あの星々は変わらずに輝いていても、自分はそこに存在しない。人の一生など、またたく星よりも儚いものなのだと自覚させられる。そう考えると、人と人との間の小さないざこざなんぞ、どうでもいいことのように思われる。わずかな時の間、同じ場所に同じく生きているというのは、ほぼ奇跡と言っていい。百年経てば、冬銀河は空にあっても、地の人は総替わりしているのだ。そう思えば、嫌いな人でもいとおしく思えませんか。

 思えんわい!(笑)

 まだ、ワルシャワは青いのう。

頭にこびりつくもの

 「源氏物語」に六条御息所という女性が登場する。とうは立っているが気品のある美しい人である。この人に光源氏がちょっかいをかける。ワシャはこの軽率な男が嫌いなのだが、紫式部が主人公にしてしまったから仕方がない。
 女ったらしの光源氏、年齢が高いことを理由に拒んでいた六条を籠絡し、割りない中になってしまう。
 しかし、色ボケ光源氏は、六条の目の届くところで、すぐに若い女人に手を出すのだった。そのことに怒り狂った六条は生霊となって、光源氏が女人とむつんでいるところに現われるのだ。また出産を控えた葵の上の枕辺にも立ち、葵の上を苦しめるのだった。
 六条は生霊である。六条は葵の上に嫉妬して、その想念が結実して妖(あやかし)となった。そして空を超えて葵の上に祟りをなしている。これは被害者と加害者がはっきりしている。
 しかし、はっきりしないものもある。たとえば、被害者のほうが一方的に妖(あやかし)をイメージの中で創り上げてしまうというものである。これは加害者がいるというわけではなく、被害者の想い込みによるところが大きく、被害者が想い込みを切り替えない限り、ずっとその妖(あやかし)はまとわりつく。そりゃそうですよね。自分の脳で創り出しているんだもの。

愚人、夢を語る

《むかしは、毎夜のように夢を見ていた。その夢の話を司馬さんにしても、いつも、「愚人、夢を語る」と言って、からかわれていた。》
 昨日亡くなられた福田みどりさん
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141112-00000047-asahi-soci
が上梓しておられる『司馬さんは夢の中2』の冒頭にある文章である。
 みどりさんは、夢をよくみるようで、その夢が現実なのか、現実が夢なのか、ときにわからなくなることがあると書いておられる。みどりさん、夢を見やすい体質なんだろう。要するに眠りの浅い人だったに違いない。
 司馬さんがお亡くなりになった後に、何度も司馬さんの夢を見たと言われる。だが、夢を見ながらも「コレハ夢ナノヨ」と自覚しながら、夢の中の司馬さんに向かい合っていたそうだ。それもすごいね。
 司馬さんの文章は、それこそ膨大な量である。司馬さん好きなワシャでも、おそらく全部に目を通しているわけではない。でも大半は読んでいると思う。あたりまえのことであるが、司馬さんの文章は司馬さんの一人称で書かれている。だから司馬さんの精神、思い、志のようなものには、ずっと浸ってきた。
 対して、司馬さんを外から見るということに関しては、司馬さんを司馬さん以外の人が書いた文章を読むに限る。いろいろな視点から見ることにより、人間司馬遼太郎が浮き上がってくる。
 だから、司馬さんの友人や知人の書いた文章もなるべく集め、読むことにしている。
 例えば、文藝春秋で司馬さんの担当編集者を務めた和田宏さんの『司馬遼太郎という人』(文春新書)は、司馬さんの素顔の見えるいい本だと思う。あるいは谷沢永一さんの『司馬遼太郎』(PHP)は、さすが司馬さんに「自分の持っている割符の片割れを持っている人」と言わしめた書誌学者である。司馬さんの本質をみごとに伐り出している。
 それらの司馬さんに関する書籍と比べると、みどりさんの『司馬さんは夢の中』(中央公論新社)は情緒的にすぎる。だけど、だからこそ見えてくる新たな司馬遼太郎像みたいなもの、風景としての司馬遼太郎が行間から浮き出ている。

「でも、いいの、いいでしょう。司馬さん」
「私も七十を過ぎた。このあたりで充電しないと、このまま老い朽ちてゆくばかりである。ああ、いやだ、いやだ」
 普通の女性の言葉で書かれている。司馬調が好きなワシャには少し柔らかすぎるが、でも、いい本ですので手に取ってみてください。福田みどりさんのご冥福をお祈りします。

 そうそう、タイトルにした「愚人、夢を語る」の出典を探したのだけれど、ついに見つからなかった。

酒の話

 ワシャは日常的にウイスキーを飲まない。自宅に置いてあるのは「白波」「霧島」「魔王」などの焼酎と、「空」「一ノ蔵」などの日本酒である。外で飲むときも、カウンターの中に小雪のような女性がいて「ウイスキーはお好きでしょ」とは言ってくれないので、ついついビールに熱燗となる。
 でもね、ウイスキーも嫌いではない。若いころはバーボン、スコッチ、ジャパニーズなどを好んで飲んでいた。金のなかった学制時代、ツレの家に遊びに行って、ツレが父親の書斎からくすねてきたジョニ黒の香しかったこと。就職したばっかりの頃、冬山の頂でレッドのポケット瓶を回し飲みした時の美味しかったこと。なぜか酒の思い出として残っているのは、ウイスキーが多いような気がする。
 そうそうニッカの創業者を主人公にしてNHKの連続テレビ小説が始まっているが、ワシャがウイスキーを飲んでいた頃は、ニッカにはあまり手を出さなかったなぁ。もっぱら愛飲していたのはオールド、角、リザーブなどが多かった。「マッサン」では堤真一が演じているサントリー創始者のほうにお世話になっているということですな。
 マッサンこと竹鶴政孝があくまでもスコッチウイスキーの再現にこだわったのに対し、鳥井信治郎シングルモルトではないブレンデッドウイスキー(ジャパニーズ)の製造に着手していく。
 ワシャ的にはニッカよりサントリーに手を挙げたわけだが、今はダントツに薩摩酒造だね。

あるところにはある

 こんなニュースが目についた。
 名古屋市の90代の女性がオレオレ詐欺に引っ掛かって5400万円の被害にあったそうな。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141111-00000034-asahi-soci
 う〜ん、どうでしょう。もちろん犯人は断罪されるべきだ。しかし、年中ピーピー言っている江戸っ子のワシャとしては、手放しに同情できないなぁ(笑)。電話があって、その日の内に5400万円をさっと渡せる人なら、おそらく詐欺に遭ったからといってその日から路頭に迷うわけでもあるまい。これから気をつけてくださいね、くらいしか言えないなぁ。
 あるところにはあるもんですな。

時代劇よもう一度

 テレビ愛知で「名奉行遠山の金さん」が最終回をむかえた。もちろん再放送のもので、松方弘樹が金さんを演じたシリーズである。最終回は「消された刺青・仮面の裏の悪魔」、第7シリーズの最終作品で、悪役として若い遠藤憲一が登場している。
 物語はともかくも、クライマックスは、若い町娘が盗賊団に捕まるところから始まる。盗賊団の首領は「冥途の土産に事の顛末を……」と言い出し、悪事の数々をペラペラと話し始める。町娘が悪党の手にかかろうとするその瞬間に、遊び人の金さんが登場する。
「この桜吹雪がみんな聴いちまったぜ」
 それから大立ち回りが始まる。浪人者ややくざ者が次から次へと金さんに斬りつけていくが、そこはそれ(笑)、金さんはスーパーマンですから、敵をバッタバッタと峰打ちで倒していくのであった。
 おっと、その浪人者の中に、あの福本清三さんがいるではあ〜りませんか。それも松方さんがポーズを決める時、きちんと松方さんの背後に風景としてきっちり映りこんでいる。福本さん、いい仕事をしておられる。こんなことを5万回も続けてこられたんですね。
 そして最後のお白洲の場面では、悪い奴がずらずらと並んで座らされているのだが、その中に福本清三さんはいない。なぜか。悪人の中でもその他大勢の斬られ役というところもあろう。斬られるときは一番いいポジションで斬られている。斬られ役では中心人物である。だったらお白洲の出番もあってもいいじゃないか……とは思うのだが、いやいや、お白洲に並ぶと、まず、斬られない。その上に遠山金四郎の桜吹雪を魅せられて、それぞれが驚き、悔しがり、切歯扼腕する表情を見せなければならないのだ。この演技が、福本さんには難しい。福本さん、目がいい人目で、演技といえどもウソがつけない(笑)。だから剣戟以外のところにはなかなか出てこないのであろう。
 NHKの時代劇「ぼんくら」に福本さんが出ていたそうだ。主役は、岸谷五朗だったので、見ていないのだが、福本さんが出ているなら惜しいことをした。

気配

 午前5時50分、まだ夜は明けていない。窓は輪郭が判る程度にほんのりと明るくなっている。新聞を取りに行こうと庭に出た。我家の郵便受けは玄関先の庭の中に、妖怪ポストのごとく立っている。
 玄関を出た途端、右手の庭の植え込みにキラリと光るものがあった。でもそれは一瞬のことで、歩を進めると光は消えた。ポストを開けてみるが、新聞は入っていない。それもそのはず、今日は休刊日だった。そのことを思い出して、手ぶらで玄関にもどる。そうするとね、またキラッと植え込みの奥で光るものがある。あんな場所に光を発するものはない。
「妖(あやかし)か」
 と、目を凝らす。光っているのは植え込みの向こうにある敷石だった。敷石のくぼみに夕べの雨がたまっていて、そこに何かの光が反射している。光源は上のほうだ。見上げれば天空に居待ちの月が掛かっていた。
 な〜んだというお話でした。

 今、6時06分なんだけど、書庫の西の窓から見える空はずいぶんと白々としてきた。夜は消え始めると早いなぁ。
 でね、もう一回、外に出てみた。そうすると植え込みの向こうの敷石はもう光らなかった。少し視点を変えてみたが、小さな水たまりに月は映らない。わずかな時間で、月が動いてしまったのだ。5時50分の光は、ごくごく偶然の賜物だった。なんだかうれしい。

 妖(あやかし)のような話から始まったのでついでに……。
夏目友人帳
http://www.nasinc.co.jp/jp/natsume-anime/archive.html
に「違える瞳」という物語がある。舞台は、タクマという元「祓い屋」と娘の月子の住む屋敷である。タクマはすでに式神――『夏目友人帳』では「式」という。ようは妖(あやかし)である――を使う能力を失っている。それどころか見ることも気配を感じることもできなくなってしまった。タクマは3匹の「式神」を持っていたのだが、その内の2匹がこじれてしまい、タクマと月子に祟りをなそうとする。一匹は家の内に残っていて、その2匹から二人を守ろうとしている。結果として、主人公の夏目貴志ニャンコ先生らの協力で2匹を解放し、めでたしめでたしとなるのだが、物語のラストはいつも少し悲しい。
 2匹はタクマを慕っている。しかしタクマは能力を失っているので、式を見ることが叶わない。そのことを知った式は、寂しく消えていく。家の内の式は、そのことを理解しながらも、タクマのそばに居たいということで、屋敷に残る道を選ぶ。屋敷から去っていく夏目たちに、小さな小窓から頭を下げる女の式。
 見えない、聞こえない、気配も感じない、それは存在していないということと同じですよね。女の式はそれで満足なのだろうか。う〜ん、それでいいんだよね。ニャンコ先生は「もの好きなもんだ」と言っているけれど。

 午前5時50分に玄関を出たとき、天空の月に気づかなかった。気づかず、そのまま家の中に入ってしまえば、夜が明けて、月は消え、その夜、月が存在していたことを知らずに夜は過ぎてしまう。ワシャの中では、その夜、月はなかったことになる。しかし、月は少しだけ気配を投げた。植え込みの奥の敷石の小さな水たまりに「わたしはここにいますよ」と月のかけらを落としたのである。