武士道

 2日前に李登輝さんの『「武士道」解題』の話をちょっとだけした。その「武士道」について、新渡戸稲造の『武士道』(岩波文庫)などを参考にしながらもう少し掘り下げたい。新渡戸はこう書き起こしている。

《武士道(シヴァリー)はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地固有の花である。》

 新渡戸はシヴァリー(Chivalry)と英訳を付けている。これはその原語「騎士道」(ホースマンシップ)に通じつつも、しかもそれよりも多くの含蓄があり、道徳的原理の掟と言っていい。新渡戸の言を引く。

 武士道を、《いかに有能なりといえども一人の頭脳の創造ではなく、またいかに著名なりといえども一人の人間の生涯に基礎するものではなく、数十年数百年にわたる武士の生活の有機的発達である。》と位置付けている。

 第二章、新渡戸は仏教から話を始める。

《運命に任すという平等なる感覚、不可避に対する静かなる服従、危険災禍に直面してのストイック的なる沈着、生を賤しみ死を親しむ心、仏教は武士道に対してこれらを寄与した。》

 新陰流の達人、柳生但馬守が弟子に剣の奥義を伝えたのち、こう言ったという。

「これ以上のことは、余の指南の及ぶところではなく、禅の教えに譲らねばならない」

 この「禅」とは禅宗という一宗派の教義程度のものではなく、すべての現象のベースの部分に流れる原理、絶対的な洞察の先にある自らによる覚醒というような意味合いのものである。

 そもそも「武士道」には教義・経典のようなものはない。口伝で父から子へ、師匠から弟子へと伝わってきたものと、幾人かの武士・学者によって書き残された格言のようなものがあるのみだと新渡戸は言う。

 事実、新渡戸自身も「武士道」の生き様を叔父であり養父であった太田時敏の生き方から学んでいる。太田は、南部藩時代に剣術指南を務めていたが、戊辰戦争に敗け、脱藩して江戸に潜伏する。その後、商売を成功させ新渡戸を養子として迎えるが、その直後に事業に失敗し、その後は長屋住まいの下級役人にまで落ちぶれでしまう。

 しかし。太田はそんな貧乏生活を意に介さず、「武士は食わねど高楊枝」とばかりに泰然として生きたという。そんな叔父の姿に新渡戸は武士(もののふ)の姿を見た。太田は甥っ子に、本などを使って「武士道」を伝授したのではなかった。己の生き様を見せることで新渡戸に「武士道とはなんぞや」ということを教えたのである。そのベースには仏教があり、神道があり、儒教があった。

 第三章では、その「武士道」の中でも「義」がもっとも厳格な教訓だと言い、こう続ける。

《武士にとりて卑怯なる行動、曲がりたる振舞いほど忌むべきものはない。》

《義は人が失われたる楽園を回復するために歩むべき直(なお)くかつ狭き道である。》

 

 ううむ、まだまだあるんだけど、長くなってきたんで、現在に照らし合わせて話をまとめたい。

 李登輝さんの著書の副題「ノーブレス・オブリージュ」のことである。

「武士道」というものは武士だけのものではない。江戸期においても武士と百姓の境界は曖昧で、例えば、藤沢周平の「たそがれ清兵衛」である。彼は海坂藩の下級武士、御蔵役の務めのかたわら、畑を耕し、内職をして、家族を養っている。米を支給され生活をする侍、とくに東北の武士たちの困窮度はかなりひどい状態で、ある意味で井口清兵衛がそれを象徴している。士と農は極めて近く、さらに言えば境界をこえて流動することも多かった。

 さらに言えば、工、商においても、「武士道」そのものが日本人における「力と美の活ける対象」なのであるから、農から二宮金次郎が出、工から左甚五郎が出、商から勝海舟が出ている。

「武士道」は「ノーブレス・オブリージュ」を体現する日本人の本質であると言える。

 

 しかし、昨今の日本人は如何ばかりであろうか?永田町に潜んでいる特権階級、霞が関に生息するエリート層、彼らに「武士道」はない。「ノーブレス・オブリージュ」という意識は失われている。

「武士は食いまくって、顎も腹もたっぷんたっぷん。高楊枝を使おうにも手が届かない」ってか(怒)。

 裏金を溜めまくって、特権にあぐらをかき、下々には六公四民の重税を強いる。こいつらは間違いなく「武士道」を知らない。

 清兵衛の海坂藩のある山形県から世襲腐れ公家の姫が永田町で白塗りの顔を晒している。先日も増税額を倍にしやあがった。前言をあっさりひっくり返しやがった。武士に二言があってはいけない。

 あ、地方に荘園をもつお公家様でしたね。こいつらには「武士道」は理解できないな!